壱之巻・始

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『……椎弥様』 小さく響いた己を呼ぶ声。 声の方にゆっくりと顔を向けるとその主は自身の視界の下方で姿を主張をしていた。 椎弥と同じく天に高く結った納戸色の髪。それは小川の様にうねり、ふわりと胸元にまで達する長さまである。 前髪を左よけに分け、右目は前髪で見えず、顔半分をも隠していた。 小さな身体を大きく見せる様に白い羽織にそして深縹色の袴を揺らし椎弥の許まで歩み寄る。 …髪よりも薄い翠色の長い襟巻きは口もとを隠し、天満月を模したような瞳が鋭く椎弥を捉えていた。 『…辰巳か。どうした?』 『蛙鳴井小夜の“継承之儀が”決まったそうです』 その言葉に、壱呼吸の間を於いた椎弥。 辰巳から視線を逸らし、唄を止め空へ羽ばたき去る春告げ鳥を見つめた。 その椎弥を追うように空を壱度見た辰巳は青空から逃げる様に顔を背けると橋に手を沿え、川を睨んだ。 『児雷也之國に潜り込み拾年…漸くこの暑苦しい所から開放されます』 ー我らが捌束脛之國(やつかはぎのくに)が天下を取るには丁度良い大きさの之國でしょうー ぎぎ、と橋を強く引っかけば壱部が抉れ色が薄まった。 『…………』 辰巳の言葉に対し黙する椎弥。消え去りし春告鳥の影を追い続ける様に空を眺めていた。 ー辰巳の言葉を他に聞いたものは居るのだろうか? 或いは 天道を司る仏なら聞いていたであろうか。 城で奉公するする者の口からは、あるまじき言葉が放たれたと言うのに。 この日も、児雷也之國は水で潤い、平穏な時が流れていた。image=502730248.jpg
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