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ベンは囁くような声で言うと。ニヤリと笑ってみせた。映画などに登場する、クールな主人公を真似しているのだろう。
いつものように、トマスは心の中でため息をついた。この男は悪人ではない。少なくとも善意はある。しかし、生半可な悪人などでは太刀打ち出来ないだろう……この面倒くささは。いつの日か、この面倒くささに耐え切れなくなり、自分はベンを殺してしまうかもしれない。
いや、自分にはそんな度胸はないだろう。
(あんたは、あたしよりベンの方が大事なの?)
ベッキーの言葉を思い出した。大事であるはずがない。幼い時から、ベンは自分のそばにいた。まるで使い走りのように扱われ、それでもベンに逆らうことは出来なかった。この腐れ縁は、ベンが死ぬまで続くのだろう。そうと知りつつも、縁を切れない己の性格と家庭環境とが忌々しくて仕方がない。
・・・
七月二十一日
トマスは我に返る。暗闇の中、別の物音が聞こえてきたのだ。トマスは息を殺し、耳をすませる。コンクリートの階段を上がって来る何者かの足音。トマスは四つん這いになり、音を立てないように動いた。視界は悪く、数十センチ先すら見えにくい。窓からの月明かりだけが頼りだ。手探りで、少しずつ階段から遠ざかって行く。
廃墟内に響く足音。虫や小動物の蠢く、カサコソという音が聞こえてくる。トマスは震えながらも、少しずつ動いた。震えは口の中にまで広がる。歯と歯が当たり、ガチガチと音を立て始めた。トマスは口を手のひらで押さえつけ、どうにか音を消す。
不意に足音が止まる。足音の主である何者かが、階段を上り終えたらしい。トマスはとっさに、そばにある家具のようなガラクタの陰に移動し、身を縮める。
息を殺し、動きを止めた。
・・・
七月二十日 昼
「ここがエメラルド・シティか……」
トマスは大通りの真ん中で立ち止まり、思わず呟いていた。
最悪の無法街。トマスがエメラルド・シティについて聞いていた噂は、そういった類いのものだった。トマスは漠然と、紛争地帯のような瓦礫の街を想像していたのである。
しかし、今いるこの場所は、ただの観光地にしか見えないのだ。ラフな服装で首からカメラを下げ、キョロキョロしている学生風がいるかと思うと、悪趣味な装飾品を多数身に着け歩く成金風の中年もいる。
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