第2章

4/6
12人が本棚に入れています
本棚に追加
/12ページ
唇を笛に当て、息を整えて吹き込む。澄んだ音が高く響き、豊かに空間を満たしていく。 笛の音が光となり風になる。笛に合わせるかのように水面がさざめき、木の葉がそよいだ。 いつのまにか春花が簀子に上がっていた。 「春花?」 声をかけた晴明には見向きもせずに、春花が博雅を見つめる。 旋律が変わる。余りなじみのない異国の曲だ。 軽やかな調べが高く低く流れていく。 春花の瞳から、水晶のような涙がぽろりと零れ落ちた。後から後から透明な雫が零れていく。 それに気づいた博雅が笛を唇から離した。 「……春花?」 「その曲は?」 晴明が問う。 「天竺のまた向こう、西方より伝わってきた曲だと聞いた」 春花が博雅の脇に跪く。 「止めないで……続けて」 童女のようなその瞳で請われて。博雅がまた笛を取り上げる。 哀愁を帯びた異国の音色が流れだした。 春花の瞳が閉じられる。 そう……この振動……旋律に覚えがある。 花であった時は理解できなかった出来事が、ひとの身体を持ったことで、再構築され記憶として甦ってくる。 ……そう、これは。あのひとが吹いていた曲だ。 その音がたゆたう空気の中に居るのが、とても心地良かった。 高く伸びる音が心を揺らし、低く響く音が身体を震わせる。 春花がそっと博雅の膝に頭を落とす。 演奏に没頭してしまった博雅は、もう気づかない。 思い出す。お前は美しいね、と撫でる指を。もっと綺麗に咲いておくれと囁く甘い声を。 自分に語りかけてくれた、愛しいひと。その人のために美しく花弁を広げ高く香った。 プリズムのように、記憶が断片的に甦っては消える。 波璃のように澄んで響く笑い声。身につけた装飾品が触れ合ってたてる小さな金属音。乾いた風の匂い。 陶然としていた春花の瞳が―――突然見開いて。晴明がはっと身構えた。 あの時も、あの人は自分の傍らで笛を吹いていた。 それが突然はたりと止んで。不意に空気の色が変わった。 満ちてくる、不安、怒り、狂気。―――悲鳴と怒号。 ……お逃げください!敵の兵が!……だめ、逃げられない。 自分に触れた指の震えを感じた時。 愛しい人の熱い血潮が、びしゃりと降り注いだ。 その瞬間、自分は明確な意識を持ったのだと思い出した。 見開いた春花の瞳が花の赤から血の赤に変わる。
/12ページ

最初のコメントを投稿しよう!