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「どうした?」
背後から晴明がゆっくりと近づく。
「なんだか前と違う気がする」
女は掌を目の前でかざして、着ている水干と同じ薄紅の爪を見つめる。
「それはそうだ。お前の本体は、ほら」
指差す方を女が顧みる。咲き誇る赤く美しい花がそこにあった。
「あれが……私か」
豪奢な花弁がふるりと震えたように見えた。
「お前、名はなんと言う?」
「……名」
訊ねた博雅を女が振り返る。宝玉のように硬質な赤いその瞳にまともに見つめられて、なぜだか博雅は落ち着かない気分になった 。
「……知らない」
視線をふいと外して、女が呟いた。
「お前が呼びやすい名を付けてやれ、博雅」
「俺が?」
晴明が妙に真剣な顔で頷いた。博雅がちょっと考える。
「では……春花(はるか)というのはどうだ?」
芸がないなと横で呟いた晴明を軽く睨む。
「春花」
彼方を見たまま、女が繰り返す。
「博雅、指を貸せ」
素直に差し出した指を晴明が掌に受ける。
「少し我慢しろ」
どこからか取り出した細い針で、博雅の人差し指の腹をつぷりと刺した。
「……ッ」
つい今しがた花の棘で刺された傷をもう一度開かれて、博雅が眉を寄せる。
そのまま引かれた指。玉になった血を、晴明が女の額に捺した。
女に触れた指の先が不意に熱くなり、陽炎のようなものが沸いて、消える。
指を離したあと、女の額には赤い印が残っていた。
「お前の名は、春花だ」
晴明が宣言した。
式に焼かせた土産の鮎を肴に、晴明と博雅は酒を酌み交わし始めた。
膝を抱えて簀子の端に座り込んだきりずっと外を見たままでいる春花を、博雅は気にしている。
「放っておいて大丈夫なのか?」
うーん、と晴明が長い返事をする。
「まぁ、あれだ。この屋敷には結界が張ってあるから外には出れまいよ」
「いや、そういう事でなく」
博雅が言う。
「腹は減らないのか?」
「式は食べる必要なぞない」
「でもあれは式ではないとお前は言ったぞ……春花」
博雅が呼びかける。
「こちらへ来て索餅でも食わぬか?」
春花は無言のまま一瞥すると、興味がなさそうに視線を外した。
「博雅、言っておくが」
晴明がことりと盃を置く。
「美しい女であるのは形だけだぞ。あれの中味は怨霊や鬼に近い」
春花をちらりと見た博雅が、晴明に視線を戻す。
「俺が形を与えて、お前が名づけた……少なくともお前に危害は加えられないはずだが」
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