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 一時間前に最終電車の時刻を迎えたにも関わらず、歌舞伎町は不夜城という名を冠する街なだけあって一向に喧騒の治まる気配すら無く、寧ろ時間が深まる毎に通りを飛び交う声の音量が増えている気さえするのだが、それもこの街の何時も通りの姿なので、晶子は消灯したクラブの事務室で何時ものように今日の売上金を計算する作業に集中していた。  そう出来るのは何年も続けているルーティンワークだということもあるが、どうしても気配を気にしてしまう長谷部の姿が側にないということも大きかった。晶子は売上金の計算や金庫の締めなどお金に関する作業は防犯上なるべく教える人数を最小限に止めたいと考えており、店を立ち上げて四年になる今でも自分以外に閉め作業を行えるのは経理担当の副店長だけなので、幾ら護衛といえど長谷部も例外にすることは出来ず、閉め作業は彼に見せないよう何時も先に店の外に出て貰ってから行っていた。  そして十分程で閉店作業を済ませ店の外に出たのだが、今日は何時もの待機の定位置であるエレベーターホールの隅に長谷部の姿が見えず、トイレにでも行ったのだろうかと思いながら晶子は辺りを見回し、彼の姿を探した。  すると非常階段の方から若い女性の大声が聞こえたので、訝しみ階段へ歩みを進めると、徐々にその声が鮮明になり、どういうこと、酷い、という単語が聞き取れたので、どうやらこの界隈では日常茶飯事である痴話喧嘩であるらしいと判って来たのだった。そして青白い非常灯のみが点く薄暗い階段を覗き込んだ瞬間、晶子の目に階下の踊り場で女性に平手打ちされる男の姿が飛び込んで来た。 「……もう二度と会いたくない」  脱色した明るめの茶髪で、ピンクのキャミソールに太腿まで見える短い丈のデニムのショートパンツを穿いた、非常灯の下でも分かる程濃いメイクの若い女性は、そう吐き捨てるとウエッジソールのサンダルで階段を足早に駆け下りて行った。黒いジャケットとジーパン姿の長身の男は叩かれた左頬を掌で押さえたまま、神妙な表情でその後ろ姿を見詰めていた。  暫くして男はひとつ溜め息を吐き何気なく顔を上げたのだが、そこに晶子の姿を見付け固まってしまったので、狼狽えた目をする男に向かって晶子はゆっくりと唇を開いた。
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