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「長谷部、こっちに来て」  静かにそう言って踵を返しもう一度店の鍵を開け、追いついた長谷部に店内へ入るように促し、客席である黒い革張りのソファへ座らせる。バーカウンターからウイスキーのボトルと氷などをテーブルまで持って来て、黙ったまま長谷部の横に腰を下ろし、氷を入れたグラスにウイスキーとミネラルウォーターを静かに注ぐ。カラカラという音を鳴らしながら硝子のマドラーで混ぜ、琥珀色の水面の揺れが静まったところで、状況が理解出来ず戸惑いの表情を浮かべている長谷部の方へそっと差し出した。 「こういう時は強いお酒飲んで寝て、気持ち切り替えるのが一番」  ウイスキーのボトルの蓋を閉めながら諭すような口調で晶子が言うと、長谷部は一瞬の間の後、グラスへ手を伸ばし水割りを一気に飲み干し、気まずそうに俯きながら小さくすみません、と呟いた。 「別にいいわよ。でも切れるなら、もう少しキレイにしないと」  彼の表情を見た晶子の口から、そんな少し踏み込んだ言葉が自然と零れたのだが、それを聞いた長谷部は何故別れを切り出したのが自分だと分かったのか、驚きの視線で尋ね返して来た。それに晶子が見れば分かるわ、と微笑と共に答えたのは、先程漏れ聞こえて来た会話から察せられるということもあるが、それ以上に今隣に座る彼から、未練の温度が全く伝わって来ない為だった。 「長かったの?」 「いえ、三ヶ月くらいです。何か、気に入られちゃって……」  晶子が質問を重ねると、長谷部は手持ち無沙汰に空のグラスを回しながら苦笑混じりにそう答えたので、どうやら彼は元からこの恋愛に乗り気ではなかったことが伺えた。上手くコントロール出来ない恋愛の終焉に戸惑う長谷部の姿は歳相応の青年らしく、初めて見えた彼のそんな一面に晶子は何処か安堵感を覚えた。そしてその後暫く、ふたりは薄明かりの店内でウイスキーを飲みながら、他愛のない話で談笑したのだった。
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