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 蝉の鳴く声の中に聞き覚えのあるドイツ車のエンジン音を聞くと、それが前から分かっていた予定時刻であるにも拘らず、晶子は夜着のスリップにガウン姿のまま反射的に身を翻してリビングのドアを開け、焦らなくてもいいと頭では分かっていながらも衝動に急かされ、蒸し暑さが肌に纏わりつくのも構わずに玄関へ向かって螺旋階段を駆け下りる。 「おぅ晶子、ただいま」  エントランスへ降りて来た晶子の姿を見付けると、彼は靴を脱ぐ動作を止めて、彼女に向かって微笑と挨拶を投げた。掠れた低い声と、鋭く熱い視線。彼が自分の身を守れる頭と肉体を持っていることは勿論知っているのだが、その裏世界の金融業という職業上、やはり離れているとどうしても不安を抱いてしまう節があるので、その久々に見る最愛の夫の変わらぬ姿に安堵を覚え、晶子も唇に微笑みを浮かべて、一ヶ月の出張を終えた雄樹をお帰りなさい、と出迎えた。  ワインレッドのシルクシャツを脱ぐと、大きく張り出した肩甲骨と筋肉で隆起する浅黒い背中が目に入り、手渡されたシャツの香水の匂いと共に、晶子の胸の奥をじわりと熱くさせた。一ヶ月振りに見るその相変わらず筋肉質に引き締まった肢体に、愛おしさから今直ぐにでも口付けたくなる衝動を抑えて、晶子は彼の荷物を片付ける為にクローゼットの扉へ手を掛ける。その時雄樹が不意に、せや、と後ろから呼び掛けた。 「俺、外に女出来たから」  雄樹が連絡事項を話す温度で放ったその言葉に、晶子は一瞬全ての感覚を失い、彼が何を言っているのか理解出来ず、躯も固まって動かせなくなってしまった。それが自分以外の女性の存在を告げる言葉なのだと理解すると、晶子は心臓を鷲掴みにされたような感覚に陥り、苦しさから呼吸をすることさえ難しかった。 「そう。なら今度挨拶でもしないとね」  けれど沈黙を長引かせたくなかった晶子は、そんな感覚を瞬時に仕舞い込み、何時も通りの冷静な声で後ろに居る雄樹へそう返すと、彼の荷物を片付ける手を再び動かし出した。
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