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ご主人様は小路を折れ、四阿へ向かわれました。その先には湖が広がっています。
ご主人様は四阿のベンチにお座りになりました。四阿は腰の高さから上は壁が無く、屋根と柱だけで四方が見渡せるようになっています。ご主人様は湖を眺め、くつろがれておられます。
湖では多くの白鳥が水面を漂っておりました。家族なのでございましょうか、数羽ずつが群れを作り行動を共にしています。時折、水面を駆けては飛び上がり、すぐに着水するのは渡りの準備なのでしょう。
ご主人様が立ち上がられました。ステッキを持たずに湖の方に歩いて行かれます。私と妻は何ごとかと心配しながらお供しました。ご主人様は十数歩歩いて立ち止まられ、芝生の上に膝をお付きになりました。その視線の先に一株のプリムローズがありました。春を告げる一番の花だったのでしょう。一輪だけがクリーム色の花を咲かしておりました。
ご主人様は手を伸ばされ、私はご主人様のために花をお摘みいたしました。花はご主人様のケープの一番上の、外したボタンホールにお挿しいたします。ほのかな香りが私、そして妻にも届き、気持ちをふわりとさせました。
その時、頭の上を何かがよぎりました。ご主人様は顔を上げ、空を見上げられます。そこにあったのは白鳥の渡りの群れでした。十羽ほどが斜めに群れを組んで北に向かって飛んで行きます。
湖にいる仲間に気付いたのでしょうか。飛んでいる白鳥が、コォー、コォーと鳴きました。湖の白鳥は一斉に頭を上げ、渡りの群れを眺めます。羽を広げ羽ばたいている白鳥もいました。彼らが北に向かう日も近いことでしょう。
『この世に在るものは皆、時の流れの中で生きている。抗うことはできないんだよ』
『はい』
『そして過ぎた季節はまた廻(めぐ)って来る。その時はまた』
『あなたと一緒に』
帰り道、ご主人様はステッキをお使いになりませんでした。私と妻は互いに言葉を交わすことなくしっかりとお供をいたしました。
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