序章、伝説の予感

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 桜査警公社。  主要二部門のうち、信用調査部門は個人や組織の内偵調査を行い、防犯警護部門は私的ボディーガードの養成と派遣業を行っている、非上場の会社である。  その前身は、先の戦争直後に軍の諜報機関の中枢にいた人物が、軍の資金と機密文書を抱えながら当局からの追究をうまく逃れて設立した組織であり、その後、長年日本の政財界を陰で牛耳った、『陰の総理』『最後の大物フィクサー』などの物騒な二つ名を持つ加積康二郎が手中に収めて以降は、政財界のお偉方と付かず離れずの距離を保ちつつ規模を拡大させてきた、いわくが有りすぎる会社でもあった。  時は流れ、老境に達した加積は、いつ自分が急逝しても周囲や社会に混乱を来さないように、自分の影響下にある数多の会社や組織を、長年自分の下で補佐役を務めていた七人の男達に任せる事にしたが、この桜査警公社だけは誰の手に委ねるかを決めかねていた。ここのデータベースには政財界のお歴々のこれまでの暗躍、謀略、内密の証拠の数々が眠っており、扱いを間違えば日本中がとんでもない騒ぎになる可能性があったからである。  滅多な者には任せられないと、彼には珍しく暫く鬱屈した日々を送っていた加積だったが、幸運な事に思わぬ事からそこを任せられそうな人物の存在を知り、彼女の意向など丸無視のまま桜査警公社を押し付ける事を決断した。 「金田、喜べ。公社の引き取り手が決まったぞ」  偶にしか訪れない社長室の椅子に座るなり、満面の笑みで言い出した名目上の上司の台詞を聞いた瞬間、この会社の実質的な最高責任者である金田の頭の中で、警戒警報が鳴り響いた。 「それは、ようございました。それで、どなたにお譲りする事になるのですか?」  内心の不安を綺麗に押し隠し、極悪顔の凄みのある笑顔などという代物に金田が淡々と応じると、加積が笑みを深めながら資料を差し出してくる。 「彼女だ」 「女性……、で、ございますか?」  もはや明確な不安を面に出しながらそれを受け取って目を通した金田は、目の前の人物に目を付けられてしまった若い女性に、心の底から同情した。 「この方は……、昨年から社内の一部で噂になっていた、《迷える子羊矯正体質》の方ですね? 何故か深刻な悩みや問題を抱えている方と遭遇すると、本人が全く意図していなかったり無意識のうちに、相手の問題を解決したり、進路変更をさせてしまうという……」 「やはりお前も知っていたか」 「ですが加積様。幾ら何でも、これは無茶過ぎませんか? こんな素人の若い女性に、ここを取り仕切らせるのは」 「安心しろ。お誂え向きに彼女には、使えるオマケが付いている」  真っ当な反論を、意味不明な言葉で遮られてしまった金田は、怪訝な顔で問い返した。 「『オマケ』とは、何の事ですか?」 「別名『迷える子羊十九号』だ」 「…………」  ニヤリと嫌らしく笑いながら続けて差し出された資料を、金田はもはや取り繕ったりせず、うんざりした表情で受け取る。 「そいつは見た目は良いし、頭も切れ過ぎる位切れるが、性格破綻者だ。彼女と関わり合わなければ、間違い無く稀代の犯罪者、いや、こいつが警察に捕まるようなヘマをするとも思えんから、俺以上の男になったかもしれん」  そんな物騒な事を口にして上機嫌に笑う加積を見て、資料に目を走らせた金田の眉間のしわが増えた。 「そのような方に、ここを任せると仰るのですか?」 「ああ。その男は彼女の夫に収まる気満々だし、常識人の彼女がしっかり奴の手綱を握るだろうから、心配は要らんだろう。実は桜が、もの凄く乗り気でな。近々、直接彼女に接触すると言っている」 「それはそれは……」  そこで金田は自分達が全く関わり合いの無い所で、平凡で平穏な人生と確実に別れを告げる事が確定してしまった若い男女に対して、深い憐憫の情を覚えた。  ※※※ 「皆、集まって貰ったのは他でもない、ここの新しい社長と会長が決まったから、御披露目をしようと思ってな」  一番広い会議室に、主要二部門の部長及び部長補佐、その他に開発解析部、人事部、財務部、経理部などの部長全員を集めた加積は、二十代後半に見える女性を居並ぶ幹部達に紹介した。 「会長は、こちらの藤宮美子(とうのみやよしこ)さんだ。桜の友人だから、仲良くしてくれ。くれぐれも失礼の無いようにな」 「藤宮です。宜しくお願いします」 「こちらこそ、宜しくお願いします」  美子が頭を下げると一同を代表して、既に彼女と引き合わされていた副社長の金田が恭しく頭を下げたが、初対面の杉本が興味津々で問いを発した。 「初めまして。私は防犯警備部門部長の、杉本と申します。藤宮様は随分お若いですが、これまでどのようなお仕事をされておられたのですか?」 「日舞教室で師範代をしていた位で、殆ど家事手伝いと専業主婦です」 「そうですか……」  予想外の内容を大真面目に返されて、杉本は二の句が告げずに唖然となった。そんな彼を横目で見ながら信用調査部門部長の吉川が、部長補佐の小野塚に囁く。 「この女性が、例の『迷える子羊矯正体質』の方だな?」 「はい、そうです。全く、じじいもすっかり面白がって……」  如何にも嘆かわしいと、小野塚が「じじい」呼ばわりした加積に呆れ気味の視線を送っていると、加積の横にいた桜が、美子の隣に立っている三十前後の仏頂面の男を手で示しながら、楽しげに補足説明してきた。 「それから、社長は美子さんのオマケの、この子だから」 「最近美子さんの夫になった、藤宮秀明だ。まあ、俺も桜のオマケみたいな物だから、これからも大して変わらんな」 「そうよね。ちょうど良かったわ」 「…………」  そう言って老夫婦が高笑いしている姿を、その場の殆どの者は何とも言い難い顔で眺め、秀明だけは面白くなさそうに睨み付けていた。 「あの……、それでは藤宮様のご職業は?」  信用調査部門では夫婦について一通り調査済みではあったものの、当然社内の他の部署の面々は、これまで無関係の人間の素性を知る筈もなく、杉本が秀明に恐る恐る尋ねると、低い声で答えが返ってくる。 「旭日食品資材統轄本部、資材調達第一課長だ」  そこで超優良企業の名前を聞いた杉本達は、僅かに動揺した。 「それはまた……、随分と手堅いご職業ですね。それでは、そこをお辞めになると?」 「同業他社の業務をするのでなければ、兼業は可能だ。勤務先の社長に確認を取った。ここはあくまでも副業だ。美子が会長なんぞを引き受けなければ、こんな面倒な肩書きを誰が引き受けるか」 「そうですか……」  吐き捨てるように言われた杉本は口を噤み、嫌悪感丸出しの秀明に対して、周囲の者達が険しい視線を向ける。 「何なんだ? あの若造、生意気な」 「社長もどうして、あんな素人の夫婦を」 「おい!」 「…………」  不満げに囁き合った面々だったが、ここで秀明が無表情で自分達に視線を定め、明らかに殺気を放っているのを察した為、直立不動で固まった。 (何だ、この殺気!) (この男、ただ者じゃないぞ!?)  彼らが動揺のあまり目を見開き、微動だにできない緊張感から解放されたのは、新たに会長となった美子の一声だった。 「秀明さん。無闇に喧嘩を売るのは止めて。まだ挨拶の途中なのよ? こちらの主だった面々との顔合わせを兼ねている事は、加積さんから説明を受けたわよね?」 「……分かっている」  困ったように言い聞かされた途端、秀明は面白くなさそうに小さく頷いて、綺麗に殺気を消し去った。公社の面々はそれに安堵すると同時に、別な不安を覚える。 (本当に何なんだ? この若造) (それにこの奥様も、一見平凡で凡庸な方に見えるのに……) (副社長も不気味に笑いながら、傍観しているし)  内心で狼狽している幹部達をおかしそうに眺めながら、加積夫妻は上機嫌で言い合った。 「本当に、ここの引き取り手が決まって良かったわ」 「ああ。ここには色々面倒な物が山積みで、下手な奴には渡せんからな。美子さんだったら安心だ」 「はぁ……。ですが私は、本当に門外漢ですけれど……」 「大丈夫よ! 面倒な事は、全部この子に任せておけば良いし。ねぇ? そうでしょう?」 「……ああ」  桜に気安く肩を叩かれながら確認を入れられた秀明は、そっぽを向きながらいかにも嫌そうに答えた。 (本当に大丈夫なのか? 確かにこれまでも、実務は加積社長に代わって副社長が執り行っていたが……)  初対面の時、杉本を筆頭とする桜査警公社の幹部達は、かなりの不安に駆られたものの、その交代劇の後、普段の実務は金田が、難しい判断を下す時は秀明がきちんと処理をして、すぐに社内では何事も無かったかのように業務が回っていった。  それから二年近く。  すっかり定例化した会長の来訪を、金田は秘書の寺島と共に恭しく出迎えた。 「会長、いらっしゃいませ。お子様連れでは大変ですね。やはりもう少し、ご自宅に書類を運ばせましょうか?」  四ヶ月前に出産した娘をベビーカーに乗せて出社した美子を見て、出産前から必要な書類を自宅に届けさせていた金田はそう申し出たが、彼女は笑って首を振った。 「月に一、二回来るだけですから。行き帰りも不自由なく車を手配して貰っていますし、大丈夫です。高額な役員報酬を頂いているので、こちらに全く顔を出さないのは申し訳ありませんから」 「そうですか? そんな事は気になさらなくても宜しいのですが……。それでは美樹(よしき)様用に、ベビーベッドでも」 「このベビーカーは寝たまま乗せられるタイプですから、一時間位はおとなしくしていますよ? わざわざ用意するのは勿体ないですから、お気遣いなく」 「はぁ、そうでございますか」  連絡はあったものの、本当に子連れで来られて微妙に調子が狂った金田だったが、それ以上は無理強いせずに傍らの秘書を振り返った。 「それでは寺島。会長に書類をお渡しして説明を」 「はい。それでは会長。こちら全てに、署名捺印をお願いします。こちらは数は少ないですが、ご意見を伺いたいものです」 「分かりました」  そこで簡単な打ち合わせを始めた二人に金田は背を向け、完全に背もたれ部分を倒したベビーカーを覗き込みながら、美樹に声をかけた。 「美樹(よしき)様、副社長の金田です。前回お宅にお伺いした時、美樹様にもお目にかかってご挨拶しましたが、私の事を覚えていらっしゃいますか?」 「だぁー」 「……覚えているわけがないか」  もぞもぞと小さく動きながら、意味の分からない声を上げた美樹を見て、金田は思わず苦笑した。そして軽く頭か頬を撫でようかと何気なく右手を美樹の顔に近づけた時、彼女の小さな手でしっかり中指の先端を掴まれる。 「あー!」 「え?」  予想外の動きに、彼が反射的に手の動きを止めて美樹を凝視すると、指を掴みながら鋭く声を上げた彼女は、そのまましっかり金田に視線を合わせていた。 (しっかり目を合わせてきた? まさか……、まだ0歳児だぞ? それに……)  先程指先を掴まれた瞬間、軽く違和感を覚えた金田がひたすら呆然としていると、すぐに美樹が飽きたように金田の指を離した。そこで金田は他に視線を移した美樹に、再び恭しく声をかける。 「覚えていただいて光栄です。今後とも、宜しくお付き合いください」 「うぁ~」  気のない声で応じた美樹に、金田が本気で笑いを誘われたところで、背後から声がかけられた。 「副社長、説明が終わりました」 「ああ」  そこで金田は背筋を伸ばして振り返り、美子に向かって頭を下げた。 「それでは会長、私達は暫く席を外します。何かあれば、副社長室におりますので」 「はい、何か不明な点がありましたら、すぐ呼びます」  美子に断りを入れて会長室を出た金田は、廊下を歩きながら「くくっ」と小さく笑った。それを耳にした寺島が、訝しげに声をかける。 「副社長? どうかされましたか?」  その問いかけに、金田は副社長室に入りながら答えた。 「美樹様だが……。さすがはあの会長と、社長のお子様だと思ってな」 「まだ歩きもしない、赤ん坊じゃありませんか」  呆れ気味に言い返した寺島に、彼の苦笑が深まる。 「確かにそうだが。ほんの少し、指が痺れた」 「はぁ?」 「あんな感じは、初めて加積様と握手した時以来だ。それに、なかなか良い面構えをしている。女でも将来が楽しみな逸材だな」 「そうですか……」  寺島は密かに(あんな赤ん坊に入れ込むとは、副社長も耄碌したのか?)と、かなり失礼な事を考えていたが、彼女は金田の予想通り公社の社員を巻き込みつつ、とんでもない逸材へと育っていくのだった。
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