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高麗王朝・第31代恭愍<コンミン>王の頃(1351~74)のことである。
都である松都の駱馳橋近辺に李という若者が住んでいた。年令は十八で才気にあふれ、風采もよく、将来に備えて国学に通い、日々、勉学に励んでいた。一方、善竹里というところに住む崔という富豪の家には十五、六になる娘がいたが、たいそう美しく、刺繍など針仕事が巧みで、その上、詩文も得意だった。
まさに才子佳人と呼ぶべきこの二人のことを都の人々は、
「風流な李公子に窈窕な崔小姐、その才色を羨まぬ者が何処にいる」
と歌にまでして口々に誉め称えた。
このことは、当然のことながら本人たちの耳にも入り、年頃の二人はいつしか互いのことを気に掛けるようになり、李青年は崔家の前を通って国学に行くようになった。
崔家の北側には塀に沿うようにして数十本のしだれ柳が植えられていた。ある日、李青年は、その中の一本のもとに腰を下ろし休息をした。何気なく塀に目をやると、小さな隙間が空いている部分があるのに気が付いた。以前から崔小姐のことが気になって仕方のなかった李青年は良くないこととは思いながらも好奇心に負けてしまい、そこから中を覗き見た。塀の内側には多くの花が今を盛りと咲き乱れ、その上を様々な種類の蝶が舞っていた。
― まるで花の国だな……。
そう思いながら彼は視線を奥に移した。そこには小さな楼(たかどの)が在り、半ば巻き上げられた簾(すだれ)の掛けられた窓辺には美しい娘の姿があった。刺繍をしていたが、疲れたのか顔を上げた。李青年は素早く隙間から顔を離した。
娘は傍にいた侍女に話し掛けた。
「香児<ヒャンア>や、いつも今時分になるとここをお通りになる方の姿が今日はまだ見えないのだけど、どうしたのでしょうね?」
微かだが何とか聞き取れた娘の言葉に李青年はいたく感激した。
― 彼女はいつも私のことを見ていてくれたのか!
彼はすぐにでも娘のもとに飛んで行きたかったが、塀は高く門も固く閉ざされていて叶わなかった。何とか自分の存在を伝えたいとあれこれ思案を巡らした末、彼は持っていた紙に詩三首を書き付け、足元にあった小石をそれに包むと塀の内側に投げ入れた。
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