憧れと嘘【1】

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「先輩? 隼先輩? 起きてください」 「……ん……あれ? 僕、寝てた?」 「はい。わりと、ぐっすり」  聞き慣れた線の細い声が、眠りの縁から僕を引き上げてくれた。 「あー、ありがと。起こしてくれて」  まだ少し眠くて頭がぼーっとするけど、黒目がちな、ぱっちりと大きな瞳が印象的な後輩に緩く微笑む。 「いえいえ。でも、隼先輩が部室で居眠りなんて珍しいですね。疲れてるのかなと思って、起こすの、ちょっと躊躇っちゃいました」 「んー、そこまで疲れてはないはずなんだけど……ふあぁ……確かに、まだ少し眠いかな。けど、やっぱ起こしてくれて助かった。サンキュ、智穂(ちほ)」  マネージャー特製のスポーツドリンクをコップに入れ、目覚まし用だと渡してくれた相手に、しっかり目が覚めたぶん、今度は明るく笑いかけた。僕を『隼先輩』と呼ぶ一年生、兼子智穂(かねこ ちほ)に。  ほとんどの生徒は幼稚舎か初等科からのつき合いになる学校だからか、陸上部の内部生は下の名前で呼び合う。智穂とは、幼稚舎からの先輩後輩の仲だ。 「隼先輩。今日の桧山くんとの坂道ダッシュ、すごくきつそうに見えたから。あれで疲れたんじゃないですか?」 「え、きつそうに見えた? すごく? うわ、ヤバいな、それ。先輩として恥ずかしい」  部室備え付けの椅子に並んで腰掛け、一緒にスポーツドリンクを口にしながらの智穂の言葉に、思わず顔が赤らむ。  実際、きつかったんだけど、離れたところにいた智穂の目から見ても、そう映ってたんだ。なら、一緒に練習してた桧山には、もっとバレバレだったってことで。それが、すごく恥ずかしい。 「伊勢谷先輩っ」  あ……。  今、脳内にその姿を浮かべてた相手がいきなり部室に入ってきて、一瞬、息を飲んだ。 「良かった。まだ帰ってなくて。先輩、来週の練習メニューの提出、まだっすよね? 今から俺と練りましょう。――おい兼子、お前は伊澄先輩とペアなんだから出てけよ。とっとと伊澄先輩とこ、行け」 「あ、うん。そうだね。僕も静流先輩と練習メニュー作らなくちゃ、だね」 「おい、桧山。そんな言い方ないだろ。智穂は今……」 「伊勢谷先輩! 先輩とペア組んでるのは、誰っすか? 俺ですよね? 兼子じゃない! ほら、行きますよ。カフェテリアで打ち合わせです!」 「あっ」  有無を言わさず強引に、というのは桧山のためにある言葉だ。  勝手に僕のバッグを肩にかけた相手に連れられ、僕は部室を出る。飲んでいたスポドリのコップを手に持ったまま、という間抜けな格好で。
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