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「……なにも知らねぇ女といきなり付き合えるか。ただでさえ医者になると決めてから勉強することの毎日で、今だってまだ、いや、これまで以上に学ぶことがある。そんななか、女の気を惹いて、好みを探って、休日に出歩いて?めんどくせぇんだよ」
芽衣は矢部の話に、なんとなくわかると思った。
今の生活が充実し、安定していて崩したくない。
そりゃたまに、イベント時にカップルを見かけると羨ましいと思う事もあるのだが。
「ならお前、ずっと一人でいるつもり?結婚、しねーの?」
バーテンダーは真剣な顔で矢部を覗き込んだ。
その視線はさっきまでの店員という立場のものではなく、昔からの友人というものだった。
「……さぁな。気を使わず、使われず、好みが似ていて、一緒に居ると楽で安心できるような女が、自己紹介なんていう一から必要なものを全部飛び越えて現れた時は、考えるだろうな」
矢部の言葉にバーテンダーは顔をひきつらせたが、芽衣は頭の中で反芻すると「なるほど」呟いた。
「……私も……ある日突然、私のすっごい好みの人が私の事をすっごい好きで無条件でラブラブになれる人が欲しいです」
頭の中に浮かんだ市川の顔に苦笑が漏れた。
一から誰かを好きになるということは、結構難しいと思う。
芽衣は雄太の顔も思い浮かべた。
あの頃の様に人を好きだと思える、それ以上の気持ちになれる人を作るなんて、よほど衝撃的な出逢いがなければ無理だ。
このまま日常を過ごしていて、突然会社の人を好きになるなんてことは考えられない。
目を伏せてグラスを呷る矢部と宙を見つめる芽衣に、バーテンダーは顔をひきつらせると乾いた笑いを洩らした。
店のドアベルが鳴り客が入ってくる。
「いらっしゃいませ。……あ、山中さん。お久しぶりっす」
そのまま芽衣たちの座るカウンター席の反対側に座った客の方へ行ってしまうと、芽衣たちは無言で一度グラスを傾けた。
「折角落ち着いて酒を飲めると思ったのに」
グッと眉を寄せた矢部に芽衣は小さく笑った。
「ここの雰囲気、私好きです。連れて来てくれてありがとうございます」
頬が熱い。イイ感じで酔っぱらってるなぁ。
気分よく、もう一口コクリと喉を鳴らす。
「……っ、」
ぽんぽん、
返事はなかったが、矢部の大きな手が頭を跳ねた。
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