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 風呂から上がった雄樹は、ベッドへは入らず、晶子に新しいスーツを用意させた。それに着替えた雄樹は、額縁のような飾りの付いた大きな姿見の前で、髪にワックスを付け始めた。バスローブを羽織った晶子は、その後ろ姿を壁に寄り掛かりながら眺める。嫌な予感がして、晶子の心臓はじりじりと熱く痛み出す。 「……あのひとの所、行くんでしょ?」  極めて感情を排除した声で、問い掛けた。 「あぁ」  雄樹のその素っ気無い返答には、一欠片の罪悪感も含まれていなかった。  “あのひと”は、雄樹が何処かのマンションに囲っている愛人。その女に会いに行く為に、最愛の夫は今、身支度を整えている。冷静に現状を理解する程、晶子の心臓は熱く軋んで行く。 (こんな思いするようになったのは、何時からだっけ。それまでは、幸せだったのに)  ――雄樹と出逢ったのは、今から五年前。だが、その出会いのシチュエーションは、お世辞にもいい形と呼べるものではなかった。今も晶子が経営している新宿のクラブに、評判を聞いた雄樹が乗っ取りを企んで訪れたのだ。彼はその頃、金融や不動産で巨額に儲けた新しい成り上がり者として、その界隈で噂になり始めていた。一方当時の晶子は、父に捨てられ私生児として育ち、15の時に母が男と駆け落ちしたという過去の経験から、「男」と男女の「愛」というものを信じておらず、自分の身ひとつで手に入れたその店が全てだった。恋愛対象の異性とは真逆の、対立する同業者。それが、初対面の時の二人の立場だった。  二人は顔を合わせた瞬間、冷静に相手を一瞥した。晶子は自分の想像と目の前の男のギャップに、違和感を覚えた。嫌な男ならば、直感で判る。だが、この男は、自分と同じ匂いがしたのだ。 次の瞬間、雄樹が口を開いた。 「榊晶子さん。俺、先刻までこの店が欲しくて堪らんかってんけど、もういらんわ」  意味不明な言葉。晶子は違和感を仕舞った至極冷たい笑顔で、素早く切り返す。 「お気に召しませんでしたか。それは結構。でしたら早く帰って下さい」 「いや、店よりあんたが欲しなったんや」  雄樹はサングラス越しに熱くて鋭い視線を晶子に投げた。彼も、同じ直感を覚えたのだった。
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