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「おやすみ。春代」
穏やかな目で私を看取りながら、次郎はそっと椅子から立ち上がりました。
病院のパイプ椅子が痛かったからなのかもしれません。お尻を右手で抑えながら、水色の患者服を纏った私に、もう一度「おやすみ」と呟いて、次郎は部屋から出ていきました。
雲ひとつない快晴の空。温度は二十三度前後で、洗濯物がよく乾くお昼頃。命日の天気は、土砂降りの雨よりも晴れている方が良かったので、少しだけ嬉しく思います。きっと、神様が私の小さな願い事を叶えてくださったのだなあと感謝をしながら、駐車場を歩く次郎を病室の窓から見つめました。
──まだ、私は此処にいるというのに、おやすみ、だなんて言われたくありませんよ。まったく。
腰掛けていたベッドから立ち上がり、ベッドに横たわる私の姿を凝視します。白髪に皺だらけの頬、眠るように安らかな顔。我ながら良い死に様というものです。しかし、あぁなんということでしょうか。幽霊なんて信じてはいませんでしたが、どうも私は考えを改めなくてはいけないようです。
非現実な出来事は信じないと決めた、小学四年生真夏の肝試し大会を思い出します。次郎にはあのとき、散々な目に遭わされました。彼が仕掛けたこんにゃくの雨で、私の心はどれほど縮こまったことか。結局仕返しできたのは、あれから八十年は経ったある日。数ヶ月前、私がスーパーから帰る道中、心臓発作で倒れた日なのでした。
次郎の顔色は、おそらく私がこんにゃくの雨に腰を抜かしたときよりも、ずっと真っ青でした。必死に私を抱き起す次郎を見ながら、ザマァ(これは若者言葉なのでしょうか。孫から教わったのですが、使い方は合っているのかわかりません)と思ってしまったのは、我ながら場違いなことだけれども、心残りが一つなくなり、私は満足なのでした。
──あなた。私はもう少しだけお伴しますよ。一緒に連れていってください。
病室のドアをすり抜けて、私は次郎を追いかけました。
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