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「井澤さん、マニアックなんだもん。俺、ノーマルだからさ。こういうことは時間をかけて
ゆっくりと、ね」
「そんなこと言って、逃げるつもりじゃないよね」
怪しむ井澤の手が、瀬野の股間に伸びる。
「気持ちよかっただろ。痛い事なんて全然してないし。もっと楽しもうよ。君の好きな事し
てあげるからさ」
瀬野は執拗に撫で回す井澤の手を掴み、明らかな拒絶を示した。すると井澤は、切り札は自
分が握っているとでも言いたげに、薄笑いを浮かべた。
「いいのか? マッサージの予約、ふいにしても」
井澤の手を掴んでいた瀬野の力が一瞬ゆるむ。井澤は駆け引きをしてまで、自分とのプレイ
に執着しているのだろうかと、瀬野は思った。
瀬野は男との性的行為に興味があるわけではない。求められれば相手の欲望を受入れるが、
それは一晩の宿と人肌の温もりの代償と割り切っていた。相手とは合意の上の付き合いで、常
に対等な関係。だからこそ相手に気に入らないところがあれば、途中で切り上げる事もできる。
だが井澤は違う。相手の気を引く言葉で誘い込み、餌をぶら下げて、自分の嗜好を半ば相手
に強要する。その狡猾さには虫酸が走るが、それでも瀬野はその手を無下に振り払えなかった。
今のところ、井澤が御崎との唯一の接点なのだ。
「逃げるわけないだろ。少しずつ、井澤さんの趣味に慣らしていってよ。とりあえず、今日
はここまで、ってことでさ」
何とか言い逃れると、瀬野は井澤のマンションを飛び出した。月にかかる雲が、新旧、高さ
も不揃いなビル群を陰のように覆う。車の通りもなく、街灯に群がる虫もいない。真空のよう
な無音の世界に、瀬野の足音だけが響き、あたかも瀬野自身を追いかけるようについてくる。
夜はまだ長い。瀬野は両手で自分の体を抱きしめると、喧騒を求めてアダムへと足を速めた。
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