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いた。力を加える方と受ける方、二人の無音の呼吸が、そして井澤が受ける力の強さと心地良
さが、瀬野にも伝わる。白衣の男の手の動きにすっかり魅せられ、瀬野はいつしか薄く唇を開
いて、二人と呼吸を合わせていた。
「君もやってもらうかい?」
自分たちを身じろぎもせずに見つめる瀬野に気づいたのか、井澤が言った。
「それでは、施術台をもう一台ご用意します。私が担当させて頂きますので」
高見がそう言うと、瀬野は、井澤の体に集中する目の前の男を反射的に指差した。
「その人にして。その人がいい」
瀬野の我がままな要求に、施術していた御崎恭一が初めて振り向いた。すると、高見が慌て
言った。
「申し訳ございません。御崎は、会員様だけにサービスを提供させて頂いておりますので、
お客様は私が‥‥」
だがその弁明を遮ったのは、御崎本人だった。
「井澤様がよろしければ、私が施術させて頂きます。まだご予約の時間も充分にありますの
で」
「それじゃあ頼むよ。僕はもういいから」
井澤はそう言うと、施術台を降り、高見から受け取ったミネラルウォーターを一口飲んで、
フッと意味深な笑みを浮かべた。
「これから彼とデートなんだ。だから、たっぷり体をほぐしてあげてよ」
「かしこまりました」
Tシャツを脱ぎ始めた瀬野の上半身を値踏みするように見つめる井澤に、御崎は無表情で答
えた。客の予約時間いっぱい、自分たちはできる限り客のニーズに応えるというのが、この店
のコンセプトだ。たとえ妻帯者の井澤がインモラルな遊びをしようと、その導入に自分の施術
が利用されようと、自分が関知する事ではない。そう自分に言い聞かせて、御崎は苛立ちそう
になる気持ちを律した。
「それでは、うつ伏せに寝てください」
御崎はそう言うと、オイルを伸ばした手のひらを、瀬野の張りのある背中にそっとあてた。
「ふぁっ」
その瞬間、瀬野が驚きとも吐息とも思える声を上げて、御崎の手が触れた背中の筋肉をピク
つかせた。
「失礼しました。冷たかったでしょうか」
「いや、何でもないです‥‥」
瀬野自身、自分が出した声に驚いていた。井澤が施術を受けている時に、御崎の手の温かさ
を勝手に想像していたからだろうか。まだ体温まで届かないオイルが妙に冷たく感じられた。
過剰に敏感になっているのを知られたかと思うと照れくさく、御崎の手を意識すればするほど
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