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二
「何にする? ビール、バーボン、日本酒もあるけど」
「水で。俺、飲めないんですよね」
「今さら警戒する事ないだろ」
井澤はオフィス街にあるセカンドハウスに瀬野を連れてきた。そこは下層階に海外の有名ブ
ランドショップ、中層階に企業のオフィス、高層階に住居が充てられたタワーマンションで、
居住者だけが地下の駐車場から直接、自分の住むフロアにだけ行けるという独自のセキュリテ
ィシステムが導入されていた。井澤は部屋に入るまでの間、郊外の一戸建てに妻と二人の娘と
一緒に暮らしているのだが、仕事が忙しい時のためにこのマンションを購入したのだと、瀬野
が聞いてもいない事を話し続けた。その言い訳めいた言葉が、かえって瀬野を不安にした。そ
してリビングルームのドアを開けた途端、その不安は現実のものとなった。普通なら中央に置
かれるであろうテーブルセットは部屋の隅に追いやられ、その場所にはキングサイズのベッド
が獲物を連れてくる主人の帰りを待っていた。
「さっきのマッサージ、会員制なんですか?」
瀬野は部屋に漂う不穏な空気に堪えられず、話題を変えた。
「大企業の幹部とか、政治家とか‥‥風俗嬢なんかも来るらしいけどね。一人の客に三時間
もかけるから、なかなか予約が取れなくてね。会員制にせざるを得ないというところだろう
な」
「三時間って‥‥。そんなにマッサージしたら、かえって体に悪そうだけど」
「マッサージだけしてるわけじゃないからね」
井澤は缶ビールを手に、ドアの傍から一歩も中に入ろうとしないに瀬野に近づいて言った。
「何してると思う?」
瀬野の脳裏に、あの店で見たガラス張りのバスルームとダブルベッドが浮かんだ。ニヤつい
た井澤の顔が、瀬野の目の前に突き出される。
「昼寝かなぁ、なんて‥‥」
答えに窮してふざけた瀬野に、井澤は「正解!」と言うと、続けて「ご褒美ね」と、瀬野の
唇にキスした。軽く触れられただけなのに、やけにヌラヌラとした唇の感触に、瀬野は思わず
体を引いた。
「何だよ、ただの挨拶だろ」
井澤はそう言うと、瀬野の腕を強引に掴み、ベッドの上に座らせた。そして手に持っていた
缶ビールを渡すと、「昼寝だけじゃないけどね」と、スーツを脱ぎながら御崎の店の話を始め
た。それは瀬野の気を逸らさないための井澤なりの策だった。
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