第1章

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     三  「まさか井澤さんがあのガキ連れてくるとは思いませんでしたね」  井澤と瀬野が乗ったエレベーターの扉が閉まると、高見がさも面白いゴシップでも掴んだか のように御崎に言った。  「ガキなんて言うなよ。一応、お客様の連れだぞ」  「すいません。でもね、あの瀬野って奴、アダムで男あさりしてるガキどもの仲間ですよ」  アダムはこの街に古くからある喫茶店で、近所のお年寄りやビジネスマンなどの常連客で賑 わう店だった。それが数年前、路地裏にラビリンスというハッテン場ができてから、客層が変 わった。ラビリンスに出入りするのは、普通のサラリーマンやアーティスト、いわゆる士業と 呼ばれる医師や弁護士、一級建築士などさまざまだが、彼らは自ら社会的地位を貶めるような 行動はとらない。限られた出会いの場で交際相手を求め、気が合えば肉体関係をもつという、 極めてシンプルな欲求を満たす場所に集まってきているだけだった。  問題は、彼らに群がる若者たちだった。彼らの経済力をあてにして、思うような相手と出会 えなかった男を見つけ出し、自らが欲求のはけ口になる。そうした若者たちは必ずしも同性愛 者ではない。また体を売ることを目的としているわけでもない。あわよくば美味い飯にありつ けるかも知れない。ワンランク上の腕時計やスニーカーをねだる事ができるかも知れない。そ んなオイシイ思いができなかったとしても、男の尻に挿れたり挿れられたりするという、自分 たちにとって意味のないバカ騒ぎをすることで、つまらない現実を忘れられるならそれでいい と思っている連中だった。  そうした若者たちが、ラビリンスに行く前の時間つぶしや、そこに集まる男たちの情報交換 の場としてアダムにたむろし始めると、やがて昼間から大声で下ネタが飛び交うようになり、 古くからの常連客は姿を消した。  「アダムなんて名前が悪かったよな」  以前、店のオーナーが愚痴をこぼしたのを、御崎も聞いた事があった。  「五、六人でつるんでるんですけどね。あいつ、いつも女みたいな華奢な男はべらせてて。 だからてっきりホル方かと思ってたけど、井澤さんが相手ってことはホラれる方だったんです ね」  高見の無遠慮な話にはうんざりしたが、井澤のたちの悪い遊びは、御崎も本人の口から何度 も聞かされていた。
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