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…――お休み。
キッチンで小腹を満たしてから二階にある書斎に帰る階段を上っている時、妻に言われた一言。夜も遅い時間であるから、ごくごくありふれた会話の類であろう。しかしながら私達、夫婦の仲はすでに冷え切っていた。だから少々の違和感を感じたが、さして気にする必要もないと思い直し、敢えてなにも答えず静かに自室へと戻っていった。
これすらもすれ違ってしまった私達夫婦の日常。
「お休みか……」
しかしここから先の時間は少しだけ普通の日とは違った。これから私は情熱と勇気を持って新たな一歩を踏み出すのだ。そうして妻との関係もこれっきりで終わりになる。やっと精算できるのだ。そう思うと意欲が湧いてくる。もちろん有り余る熱意で何年も前から今日という日の為に入念に準備をしてきた。努力も欠かさず怠らなかった。
また一階にいる妻からお休みという声が聞こえたような気がした。
私は書斎のドアを堅く内側から施錠する。単にひねるタイプのものだが、こうする事で外側からは蹴破らない限りはドアを開ける方法はなくなる。こうしてしまえば私の進歩を妻からは邪魔されない。無論、妻以外のどんな存在であろうと私の決意と情熱を否定はできない。いや、否定させない。
あとは否定させない為に必要なのは勇気。
…――新たなる未知へと旅立つ一歩を踏み出す勇気だけなのだ。
私の目は情熱で燃える。
燃え盛る。
机の上を見る。真っ白な錠剤、そして冷えたビールに七輪と練炭。当然だが練炭の煙が外に漏れないよう窓やドアには目張りがしてある。最後に施錠したドアに目張りをすれば全ての準備が整い完了だ。あとは実行する勇気だけ……。
「さようなら」
一人静かにつぶやく。
すると一人言に妻が答えたような気がした。
「出立に乾杯。安らかにお休みなさい。永遠に……」
とワインを片手に祝杯をあげた事を私がそれこそ永遠に知るよしもなかった。
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