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先生の警告を思い出した私は、ゴクリと息を呑む。
恐る恐るスケッチブックから顔を上げると、辺り一面、夕暮れでうっすらと蜜柑色に染まり、影は濃く長くなっていた。空を仰ぐと、先程確認した時よりも低い所に位置する夕日が眩く光り、薄紅色のうろこ雲を透かしている。
昼間よりは暗く、夜よりは明るい、申し分のない黄昏時だ。……先生の言うところの、あわいでもあるのだろう。
そして、自分が確認できるあわいはこれだけではないのではないか、とふと気付く。
自分が今いるのは、二基の堤防の間に位置する河川敷。
目の前では、両岸の間に河川が流れている。
このコスモス畑に気付いたのも、橋の半ばだった。
おまけに、今は十月、神無月だ。
――十月に入ったら、あわいにくれぐれも注意なさい。
(……!)
先生の警告が脳内を過ぎった途端に、言い知れぬ不安が、ゾワリと背筋を撫でる。
もしかして、自分の置かれた状況は、かなり拙いのではないか。
おもむろに視線を手元に戻すと、今まで描き込んでいた鉛筆の線が、辺りの暗さに紛れて、すっかり見え難くなっていた。
――まだこの世界にいたければ……
かつての先生の脅し文句が、否が応でも不安を掻き立てる。
(帰らなきゃ)
慌ててスケッチブックを閉じ、鉛筆は制服の胸ポケットに挿す。そうしている間にも、刻一刻と視界は赤みと暗さを増していく。片付けを終えて立ち上がった頃には、夕日とそれが照らす雲は鮮烈な赤に色付き、上空は群青に染まっていた。
(おかしくない?)
秋の日は釣瓶落としというけれど、それにしても日が沈むのが早過ぎる。
辺りはすっかり茜色。
この景色は美しいが、どこか寂しさや恐ろしさを感じさせた。
まるで私の知る世界とは違うもののようだ。
――此岸と彼岸の境
――彼岸へ繋がる門になり易い。
(まさか、私ったら、知らない内に門の中に迷い込んだとか?)
不穏な想像に抗うように首を横に振り、堤防の上に留めている自転車まで向かおうと足を踏み出したその時、左背後から声が聞こえた。
「もしもし」
「!?」
聞こえたのは、抑揚のない人の声。先に掛けられたものと同じだ。
あまりにも唐突だったから、その驚きようといったらない。悲鳴をなんとか押し止め、呼び掛けに応じて振り向き、ギョッとする。
(……先生?!)
肩越しに見た先――自分のすぐ真後ろにいたのは、毒々しい赤い夕日に照らされた先生だった。
(どうして、先生が?)
そこにいたのは、いつもの鹿爪らしい格好をした、私の家庭教師で。
でも、そんなことがあるのかな、と訝しむ。
今日の家庭教師はお休みで、先生がこんな、道から大分外れた河川敷にいるとは思えない。
どうして、と疑問に思う傍ら、胸の奥で得体の知れないモヤモヤとした気持ちの悪い塊が蠢くような感覚を覚え、眉を顰める。
(なんだろう、すごく気持ちが悪い)
返事をしようにも、気持ち悪さのせいで思うように声が出ず、困惑しつつも先生を見上げる。先生は直立不動のまま、無表情でこちらを見下ろし、口をほんの少しだけ開いた。
「もしもし」
また同じ呼び掛けだ。
だがそれよりも、なんて抑揚のない声と目だろう。
目の前にいる人は、顔も姿も声も先生そのもの。
でも、私の知っている先生は、寡黙だけどこんなに空虚な様を見せたことはなかった。もっと感情が籠もった眼差しを私に向けるひとなのに、今はこの人が何を考えているのかまるでわからない。
「もしもし」
まただ。
その口から紡ぐ音は、たったの二つのみ。
その他の音も言葉も持ち合わせていないのかと疑うほどに……まるで壊れたテープレコーダーのように彼は「もしもし」と繰り返す。
耳から侵入する二音が、いたずらに不安と恐怖を増幅させて、ゾワリと背中が粟立った。
(怖い。この人は、先生っぽいけど先生じゃない。どうしよう。どうやって逃げればいいの)
目の前の人から逃げ出したいのに、脚が震えて動かない。
現状を打破できる術はないかと、必死に視線をあちらこちらに這わせた。
見えるのは、夕焼けの茜と影の黒が彩る二色の世界。近くにあるのは、一面のコスモス畑と大きな河。少し向こうには、帰路に繋がる橋が架かっている。
堤防の上の自転車までは、何メートルあるだろう? この人に捕まらないように堤防を駆け上がり、自転車に乗って逃げきれるだろうか?
(神さま……神さま、お願いします。私を無事に、家に帰してください)
今は十月――神無月。
先生の言うとおりならば、神さまは今、この地を留守にしているのだろうけれど、願わずにはいられなかった。
胸の奥底から込み上げる気持ちの悪さを深呼吸で抑え、怖気づく心を奮い立たせて、足を動かそうと試みる。
ジリ……と微かに右足を動かした瞬間、目の前の人が咄嗟に私の左腕を掴んだ。
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