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「桂繊〈ケソム〉が、久しぶりに歌った!」  都では、この話題で持ちきりでした。  先日、〝新都心〟とも言うべき華城で行なわれた国王(正祖王・在位一七七六~一八〇一)の母君(恵慶宮洪氏)の還暦の祝宴に呼ばれた桂繊は、王と王母を始めとした王族や政府高官たちの前で自慢の歌声を披露しました。既に齢六十になっていた彼女でしたが、その声は往年と全く変わるところがありませんでした。  この話は、すぐに都から離れた坡州に住む沈魯崇〈シムノスン〉のもとにも伝わりました。彼の遠縁にあたる沈 〈シミョン〉が、かつて彼女の〝パトロン〟をしていたため、魯崇も桂繊とは顔馴染みでした。 「もう一度、会いたいものだ。」  彼女の噂を耳にした魯崇は、ふと呟きました。この望みは予想外に早く叶いました。  それから二年経ったある日、驢馬に乗った桂繊が、魯崇の家を訪ねて来ました。突然の訪問に驚いた魯崇でしたが、大喜びで彼女を迎えました。質素な服装をしているものの、髪はきれいに結い上げられ、背筋を真直ぐに伸ばした彼女からは〝老い〟というものが全く感じられませんでした。  二人は、親子ほどの年令差がありますが、互いに相通じるものがあるのか、初めて会った時から意気投合しました。それゆえ、久しぶりに会った二人の 話の種は尽きることが無く、そして、いつしか話題は桂繊の身の上に移っていきました。魯崇は、大急ぎで机上に紙を広げ、筆を走らせました。この様子を見た桂繊が、 「まあ、わたくしごときの身の上話を書き取って頂けるのですか?」 と笑いながら言うと、魯崇は、 「私が書かなければ、誰があなたのことを後世に伝えよう?」 と真面目な顔で応えました。 「わたくしにそのような価値がありますか?」 「あるとも。一代の歌姫・桂繊の存在は、永遠に伝えなくてはならない。」  桂繊は、魯崇の言葉に胸が熱くなりました。どんなに人気があろうとも一介の芸人に過ぎない我が身のことを、これほどまでに考えてくれる士人・沈魯崇に彼女は心から感謝しました。涙を拭っている桂繊に魯崇は、優しく言いました。 「さあ、話して下さい。あなたが、これまで経てきたことを。」
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