試し読み

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「行ってらっしゃい。気を付けてね」  新学期初日の朝、八木原理恵は母親の声を背中に受けて学校に向かった。春の日差しが温かい通学路を歩く。校門をくぐり、小綺麗な校舎に向かった。普段は朝練に励む運動部の声が響くグラウンドも、今日ばかりは静まり返っている。校舎に入っても物音一つしない。静かな廊下で、理恵は自らのクラスを確認して教室へ向かった。  友達がいないと、クラスが一緒になったならなかったで一喜一憂しなくて済むから楽だよね。新学期早々こんなネガティブな事考えてる私って、やっぱり少し変わってるのかな。  そんな事を考えながら階段を上っていると、いつの間にか教室のある階を通り過ぎてしまっていたらしい。慌てて階段を下り、教室のドアを開ける。誰もいない。ほっと息を吐き、自分の席に着いた。  理恵の席は、窓際の一番後ろだった。左と後方の誰もいない空間が心地良い。窓から先程通った校門を見下ろす。五分咲きの桜が微かな風で揺れていた。  スクールバッグからペンケースと文庫本を取り出し、バッグを机の横のフックに掛ける。文庫本の栞を挟んだページを開きかけた時、突然教室のドアが開いた。驚いてドアの方へ目を向けると、一人の背の高い男子が立っている。その男子は整った顔を理恵に向け、軽い調子で声を掛けてきた。 「あんたこのクラスの奴? 俺今日このクラスに転校してきたんだけど、児玉先生ってどこにいるか分かる? グラウンドにいるって言ってたのに、見当たんねぇんだよね」  あまりに突然の出来事に、理恵の目は泳いでしまった。身体が強張る。 「え、あ、職員室にいるんじゃないですか……?」  初対面の私にそんな気さくに話しかけないで。どう接したらいいか全然わかんないよ。 「そりゃそうか。あ、俺、成瀬葵。あんた名前は?」 「あ、や、八木原理恵です……」 「八木原ね。職員室行ってみるよ。ありがとう」  それから葵と名乗った男子の視線は、理恵の手の中にある文庫本に移った。微かな微笑みが、葵の形の良い唇に浮かんだ。 「悪いな、読書の邪魔しちゃって」  葵はドアを閉めた。葵の足音が遠のいていくにつれ、理恵の身体中から力が抜けていく。少し言葉を交わしただけなのに、どっと疲れが襲ってきた。 「先生の居場所くらい自分で考えてよ……」  理恵は気を紛らわせるように、いつも以上に夢中になって本の世界に入り込んだ。
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