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 ロッサミアにはどんな聞かん坊でも瞬時に黙る、とっておきの一言がある。 “魔女の森”に連れて行くぞ  チリエージャ地方の東端、国境付近に広がる大きな森――正式名称は誰も知らない、通称“魔女の森”。淡い花弁が爽やかに舞うこの国で唯一の暗い色。陽が落ちれば黒にも見えるほどの深い緑で覆われた一帯。国王すらも手を出せない不可侵の領域。隣国からも得体の知れない存在として恐れられる、それが“魔女の森”だった。 1  指定された宿の部屋、粗末ではないが質素な造りのベッドに腰かけてセレーノは項垂れていた。 (さて、どうしたものかな)  セレーノ・カルモはロッサミアの国立の、とある研究室に属していた。学者としてはまだほんの駆け出しで研究室では下っ端扱いだ。文献や書類の整頓、よその研究室への伝達係など雑事ばかりの日々で自分の研究は後回しにせざるをえない。最初のうちは雑用に追われるのが当たり前、それでも給料がもらえるからこれといって大きな不満はない。いつか自分にも、自分の研究向きの好機が必ずめぐってくるだろう。セレーノは前向きにとらえ黙々と雑事をこなしていた。 (いつか、どころじゃなかったな) 昨日の朝、室長に呼ばれて大判の羊皮紙を渡された。 「おめでとう、君に大仕事だ。“魔女の森”調査員に任命されたよ」  何が起こったのか分からなかった。曰く、十年に一度行われる“魔女の森”の生態調査員に指名されたとのことだ。 「君の場合、ちょうどいいフィールドワークにもなるだろう。宿泊費や必要経費はすべて国から出る。しかも太っ腹なことに糸目はつけないそうだ。こちらのことは気にせず行ってきたまえ」  恰幅が良く気さくな室長は、そう言いながらも笑う口元が引きつっていた。分かりましたとつぶやくように相槌を打つと、室長は小さな丸い目にみるみる涙を溜めてうつむいた。分厚い手がセレーノの両肩をつかむ。 「すまない……! 本当は行かせたくないんだが、どうしても君の研究分野なら適任だと議会で決まってしまったそうなんだ。まだ若い、我が子同然の君を、たった一人で何日も“魔女の森”に出入りさせるなんて、本当に……!」  国の研究室に所属する以上、研究分野は登録及び管理されている。そしてそれを持ち出されてしまえば断れる余地などない。ぐすぐすと体を震わせる室長にセレーノは曖昧に笑ってみせるしかなかった。
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