冒頭部

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夕凪ヶ浜に人魚が打ち上げられたと聞いて、僕は学校をサボった。 Hypoxyphilia Hydrophilia 「眠りに落ちる寸前って気持ちいいでしょう?」 目覚めてすぐに彼女は言った。少し肌寒い夜、やるべきタスクをすべて終わらせてベッドに入る。固まったあちこちをぐぐ、と伸ばし、目をつむってすっとまどろんでいるその時。あるいは目覚ましが鳴り、起きなくちゃならないと思ってはいても、ぼんやりした思考の中で二度寝してしまう。まぶたを閉じればすぐにもう一度眠りに入れる瞬間の気持ちよさ――その快楽なんだそうだ。 「だから、性的な嗜好と言われるのが我慢ならないの。コレはそういうソレとは違う。頭が……いいえ、精神がコレを求めているのよ」  しかし阿部定事件だってあったくらいだしと僕が言うと、彼女はふぅ、と短く溜息を吐いた。 「窒息プレイのことを言っているの? あるいは失神ゲームのこと? ……それは混同よ。言うなれば私は水が好きなの。溺れるのが好きなの。眠りに落ちるように、水底へ沈んでいくのを、愛してる」 彼女はそう呟くと――いつだって彼女は僕に向かって話しているようで、実は僕に焦点を合わせてはいない――ららららららららるぅららら、とのっぺりした歌を口ずさんだ。  午後だった。病室の中は赤味がかった無色の空気で満ちていた。だだ広く感じる個室のベッドに、粟色のシーツにくるまるようにして彼女は仰向けで寝ている。普通こういう時はベッドを少し立てて上半身を起こすものだと思うのだけれど。一枚の布にミノムシのようにくるまって、まるで開所恐怖症か何かの病気に見えるかもしれない。胸から飛び出たチューブが、絶え間なく少しずつ水を排出している。どういう仕組みかは知らないけれど、きっと彼女が飲み干した海水を全部外へ出そうとしているのだろう。 地上で、彼女が暮らせるように。 「不良ね」と彼女は仰向けのまま、ちらりとこちらを見て一息吐いた。「学校サボるなんて」 「……最近は無かったのに」 「何が」 「人魚」  彼女は瞬間的に苦い顔をした。 「人を珍獣みたいに言うのはやめて」
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