第1章

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いつもの如く、博雅は独り晴明の家にやってきた。 紺桔梗の指貫に薄い榛色の直衣。淡い茶が瞳の色によく合っている。 手に下げた瓶子の中には、 唐渡りの酒。珍しいものを貰ったので一緒に呑もうというわけだ。 頃は梅雨。しっとりと細かい雨が漂うように降っている。 庭では乱れ放題に伸びた雑草が、雨に濡れて生き生きと緑を広げていた。注意深い目で見れば、 荒れているように見える庭にもそれなりの意図と調和があると知れる。 足元に群れて咲く白い小さな銀杯草を踏まないように、博雅は注意深く歩を進めた。 しめじめとした空気の中には、甘く清冽な花の香。 「……春花?」 ふと見ると、簀子(すのこ)の上がり口に春花が立っていた。 春花は遠い異国の花から晴明が呼び出した精霊である。 結わずに背に流した波打つ赤い髪にも薄紅の水干にも、細かい水滴がついている。 「どうかしたのか?そんなに濡れて……」 途方にくれたようなその顔に思わず声をかける。 「屋敷に入れない」 「なぜ?」 「晴明が結界を張っている」 淡々と春花が答える。 「……結界?」 博雅の眉が顰められた。いかに人でないとは言え、雨に打たせておくのは非道というものだ。 「春花、来い」 硬玉めいた瞳が博雅を見上げる。その小さな手を取って博雅は階(きざはし)を登った。 と、狩衣をまとった女性の式神がすいと前を塞ぐ。 「主(あるじ)から止められております」 「なぜだ?」 式は答えない。 制する腕を振り払って、博雅が簀子に上がろうとした。 「あ」 たたらを踏んで下がった式が小さく声を上げる。 ばちりと。 一瞬眩しい火花のようなものが散って、博雅は目を覆った。 瞼を開くと、式の姿はない……人型に切り抜いた紙がひらりと落ちる。 と、どおん、と地鳴りがして屋敷が揺れ、奥から叫び声が上がった。 とっさに春花を抱き寄せた 博雅がはっと顔を上げる。今の声は確かに晴明のものだ。 「そこで待て」 春花を雨の当たらない場所に置いて、博雅は中に駆け入った。 普段から術の研究に使っている北の対(つい)。 閉ざされていた襖障子を開け放って足を踏み入れた博雅が、立ち止まる。訝しげに天井を振り仰いだ。 灯りもないのに妙に明るい部屋の中。金色の煙るような光が満ちている。 ふんわりとした細かいものが、後から後からどこからともなく落ちてくる。
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