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美佐、そして
あたしはワードローブのぴったりと閉じた扉の前に立ち、耳をすました。中からは何の音もしない。ちょっとかわいそうな気がしたけどしょうがない。みんな彼女の弱さのせいなのだから。
「じゃあ、彼をお迎えする準備をしましょうか」
あたしはキッチンに行って、彼をもてなすための飲み物や食材を物色した。キッチンストッカーを開け、冷蔵庫をのぞき込んだところでため息をつく。佑美ったらろくなものを置いていない。冷蔵庫はほとんど空っぽ。ワインどころか缶ビールすら無かった。仕方ないので、コーヒーを淹れることにする。
電気ケトルに水を満たしてスイッチをいれる。ケトルがコトコトと音を立てはじめた時、ドアチャイムが鳴った。
ドアスコープを覗くと、薔薇の花束を持った真一が立っていた。ドアを開け、彼を部屋に迎え入れる。
「いらっしゃい、真一」
「や、やあ」
彼は探るような目であたしを見つめてきた。美佐と佑美のどっちなのかを見定めようとしているみたい。
「君は、美佐さんなのかな?」
「そうよ」
あたしは、部屋の奥のワードローブの扉をちらりと見る。
「佑美のことは気にしないでいいわ。彼女にはあたし達の邪魔はしないよう言い聞かしたから」「そ、そうなんだ。あ、これどうぞ」
そう言って、真一はあたしに花束を手渡した。花瓶はどこにあったかしら? 花束を抱えて振り返る。
「ありがとう、綺麗な……」
言い終えることができなかった。真一にいきなり後ろからきつく抱きしめられる。いいえ、抱きしめられると言うより押さえつけられている感じ。あたしの身体の前で真一の両手の指がしっかりと組み合わされている。
「ちょっ、ちょっと……」
頭の中から言葉が消えてしまう。背筋に冷たいものが走り、体が硬直した。
「動かないで。乱暴なことはしたくない」
真一が耳元でささやいた。
「どうか落ちついて俺の話を聞いてくれ、佑美」
「え……、何言っているの、あたしは美佐よ」
「美佐なんてもともと存在しない。佑美、君の心が生んだ幻なんだ」
あたしには彼の言っていることが理解できなかった。あたしは佑美じゃない。佑美はワードローブの中にいる。自分では何ひとつできない彼女にはお似合いの場所よ。
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