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粥を口に運ぼうとしていたカイソンが、思わず粥を吐き出す。
横に座っているウシワカを肘で小突く。
(おい。なんでわざわざ、そんなこと言っちゃうんだ)
もし、ネエさんが黒ずくめなら、喧嘩を売るようなものだ。
「そうかい」
ネエさんのほうは、全く動じていない。
「ぐっすり寝てるからね。全然気付かなかったよ」
「でも、黒ずくめは橋の下、ちょうどこの家の眼の前にあらかじめ小舟を停めていて、それに飛び降りて逃げたんです。眼の前に小舟があったら気付きませんか?」
カイソンの思いを全く無視するように、ウシワカが続ける。
「さあねえ」
ネエさんが顎に手を当て、首をひねった時である。
「そこひなき 淵やは騒ぐ 山川の 浅き瀬にこそ あだ浪はたて」
あばら家の川岸に近いあたりから、朗々と美しい声が響いた。
ややあって三人が座っている刀の部屋へ、浅葱色の狩衣を着た青年が入って来た。
「古今和歌集 巻十四、素性(そせい)法師です」
青年は色白。中肉中背。烏帽子をかぶり、右腰に朱塗りの刀を帯びている。
目元がすずやかで、眉が整い、鼻筋が通った美貌だ。
「底知れない深さの淵は騒いだりしません。山川の浅い瀬にこそ、いたずらな波が立つのです…といった意味だね」
ウシワカが青年を見て言った。
「そう。それと同じです」
青年は歌うような、やや甲高い声で応じた。
「耳を澄ませて川の流れる音を聴いてください。ざわざわと聴こえませんか」
一同は黙り込み、耳を川の方へ向けた。鴨川と呼ばれる、大きな川である。
「なるほど、じゃばじゃばっていってる」
ややあって、カイソンがつぶやいた。
「この家がある側は川の浅い方。小舟を停めるとしたら深い方。つまり対岸です。ですからこの家にいて気付かないのは当然」
「なるほど。古い和歌に当てはめて現実を解釈する。教養あるなあ」
カイソンが何度もうなずき、感心している。
「ウシワカ。このひとも知り合いなわけ?」
「ああ」
ウシワカは首肯した。
「ネエさんの息子さ。シンキチっていうんだ」
「え。このネエさんの息子さん?」
(不気味な女の息子なのに、全然似てねえ…。なんて知的ですがすがしい)
カイソンは内心でいぶかったが、もちろん口にはしない。
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