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秋深い夜の空気を透して、彼の体温が感じられるまでにその背中に近寄ると足を止めた。彼は懸命にその手の中の液晶画面に見入っている。すぐ後ろに自分が居ることも気がつかずに。
――上手く声が出せるか?
もう息をするのも億劫だったのだ。上手く彼の名前を呼べるだろうか。渇く喉を湿らせるようにコクンと唾を呑み込んだ。何度か心の中で彼の名前を唱えてみる。低く、優しく、落ち着いて、そして――。
「……藤岡」
瞬間、目の前の彼の肩が大きく動いた。きっと聴こえたのだ。かけた声は少し震えて掠れていたけれど。でも彼はなぜか振り返ってくれない。今度はもう少し、腹に力を入れて呼んでみる。
「藤岡」
俯いていた彼の頭が大きく跳ね上がる。そして何度か声の主を捜すように左右へと視線を動かすと、やがて彼はゆっくりと後ろに振り返った。
自分は今、上手く笑顔を浮かべているのだろうか?
目の前の悠希は月明かりにその顔を晒して、大きく目を見開いていた。一時の沈黙がふたりを包む。相変わらず、耳には雨と雷鳴の音が微かに聴こえていた。
そう、もうすぐここも雨が降る――。
だが、どうしたことだろう。いつも持ち歩いている鞄も、その中に忍ばせている折り畳みの傘も持っていない。あるのは右手に握りしめた赤い携帯電話だけ。これではふたりとも雨に濡れてしまう。
「藤岡、おまえに伝えたいことが沢山あるんだ。だけどその前に雨宿りをしないと」
驚いたままの悠希にそう言ってはみたが、どうやって雨を避ければいいのだろう。それに唐突に雨が降るなどと言って不思議がられはしないだろうか。
呼びかけても悠希はこちらの顔をじっと見つめて微動だにしない。その瞳には月の光のもとに立つ自分の顔が写っている。その顔は今とは違う、病に倒れる前の悠希と出逢った頃の精悍な顔だった。
――なぜ黙っているんだ……。
水面に墨を落としたような不安が胸に拡がる。
――もしかしたら俺を忘れてしまったのか?
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