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「こういう時」
啓一はそこで言葉を区切った。
肩から下げているカジュアルなブリーフケースの中を探る。
「普通は安楽死させてやる」
取り出したのはビニール包装された小さな注射器と、液体の入った小さな遮光瓶。
「それはなに?」
「ペントバルビタールナトリウム。
動物実験などで使われる麻酔薬だよ。実験を終えた動物を安楽死する時にも使う」
「注射するの?
わたし注射器なんて触ったことないよ」
「簡単さ。皮下注射で使えるし、そもそも過剰投与による安楽死だから、分量もそんなに神経質になる必要もない」
「詳しいんだね。
こんなものどうしたの?」
「これでも医者だぜ。学生時代は動物も使ってたから、ペントバルビタールはよく使ってたんだ」
啓一は注射器と麻酔薬を差し出した。
わたしは恐る恐る受け取る。
ガラス瓶を日の光に透かしてみた。
遮光されて液体の色は分からないけど、揺れる茶色の水面が綺麗だった。
受け取ったことが、わたしの意思表示になったようで、彼は満足そうに頷いた。
「……やってみる」
声が掠れていた。
今日のところはこれで別れるつもりだった。
安楽死を決行するためには、まだ自分を説得する必要がありそうだった。
「オレも行くよ」
啓一が言った。
「今から部屋に来るの?」
脈が速くなった。
「保定する人間もいるだろう」
錯覚かも知れないが、急に彼の機嫌が良くなったように感じる。
「保定っておさえる係のこと?」
「ああ。だけどオレは注射はしない。
猫を愛するからこそ、お前には安楽死を行う責任がある」
「でも毛を吸い込んで、アレルギー出ちゃうよ」
「最後ぐらいは頑張るさ」
言いながら、彼はすでに軽い足取りで、土手の階段を降り始めていた。
最後という言葉が、鉛の重しのようにわたしの胸の真ん中に落ちてきた。
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