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「少し歩かないか?」
その日彼は、部屋には入らず玄関口でそう言った。
前の訪問からは、年を跨いでいた。研修医の仕事には年末年始も関係ないらしく、クリスマスや正月にも電話やメールはなかった。
冬の空気が彼の気管によくないのではないかと思ったが、彼が部屋に入ることを拒否しているように思えて、申し出を断ることができなかった。
マンションのすぐ前には河川敷がある。
一級河川に指定されている、流れのゆったりとした幅の広い河だ。
土手一面の芝生はすっかり命が抜けたような色になっている。
風があるせいか人影は少ない。ダウンジャケットに身を包んだ釣り人が数人、背中を丸めて水面に糸を垂らしているぐらいだ。
わたしたちは土手の上の道を、あてもなく歩いた。
彼が部屋に入らないのは猫の毛のアレルギーを気にしてのことだろう。
彼のセリフがわたしの脳内で再生される。
―― オレがなんとかしようか
あの日以来、 トーンを変えて何度も何度もリピートされた言葉だった。
「なんとか」とはどういう意味だろうか。
彼が知り合いをあたって引き取り手を探すという意味だろうか。
それとも保健所に連れていくという意味だろうか。
いずれにせよ、わたしの中で答えは出ていた。
手段はともかく、しらすをわたしの元から引き離そうというのなら、わたしが離れるのは彼のほうだ。
これまでの半年間の、日数にすれば十日にも満たない彼との逢瀬。
時間に直せば、せいぜい五十時間ぐらいか。
それが啓一と過ごしたすべて。
対してしらすは、わたしが一人暮らしを始めてからの四年間ずっと一緒なのだ。
しらすの存在が、これまでの一人暮らしの孤独を救ってくれてきたのだ。
どちらの存在を選ぶかなど、比べるまでもない。
「別れてくれないか」
だけどその言葉を口にしたのは彼のほうだった。
「え」
「正直、大切に思われてるように感じない」
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