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《涙は返すことができない。その代わり……》
男性の指先が空を指す。それにつられて夕実を空を見上げた。空は青く澄んでいるのに、ポツリ、ポツリ、と雫が頬におちてくる。
頬をつたい落ちる雫が、まるで夕実自身が泣いているかのようだ。
《泣きたくなったら、私に言え。そのためにいつも傍にいるのだから》
「そばに?」
《ああ》
男性が短く答えるのと同時、ちりんと鈴の音が鳴った。男性の姿が一瞬にして黒い猫の姿に変わる。
「……ツユ」
「にゃー」
尻尾を一振りして、返事をするように猫が鳴く。呆然と立ち尽くしている夕実の肩にツユは器用に飛び乗り、嬉しそうにまたひとつ鳴く。
その瞬間、頭の中に映像が流れ込んできた。
「私の名前は、ゆみ。お兄さんの、お名前は?」
《私の名前は、ない》
「名前、ないの?」
《忘れられた雨の神だからな》
「じゃあ、私がつけてあげる!」
《そなたが?》
「うん。私ね紫陽花の咲く、この季節が大好きなの。だから、ツユってどうかな?」
《ツユ……そうか、梅雨か。私にぴったりの名だな。ありがとう、ゆみ》
懐かしい記憶が、よみがえる。
「あれから、ずっと傍にいてくれたのね」
夕実の言葉に応えるかのようにツユは、ちりんと鈴を鳴らしてみせた。
紫陽花に、たくさんの水滴をのこして、いつのまにか雨はどこかへと行ってしまっていた。
紫陽花の水滴が小さな水溜りへと落ち、波紋が広がる。夕実はツユを抱き上げると優しくその頭を撫でた。軽やかな鈴の音だけが嬉しげに鳴っていた。
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