紫陽花のなみだ

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「ありがとうございました」  試合相手に向かって一礼。夕実の矢が、的の中心を射ることはなかった。しかし、相手は軽やかに、中心へと決めていく。吸い込まれるように矢が、中心を射るのをみた夕実は、この試合、己の敗北であると悟ったのだ。  昼休憩中、夕実は道場の外でお昼を食べていた。学校の裏にあたるこの場所からは、青や紫などの紫陽花が咲いているのが見える。  幼い頃から紫陽花を眺めていると不思議と心が落ち着くのだ。  心が落ち着いたところで、夕実は、自分の目元に触れた。  指は、濡れない。泣きたいほど悔しくて、悲しい想いを抱いているというのに夕実の瞳からは、涙さえ溢れてこない。  昔は、酷く泣き虫だったのを覚えている。しかし、ある日を境に、今までの泣き虫が嘘だったかのように、どんなことにも涙を流さなくなってしまったのだ。周りの人からは大人に近づいた証拠だと言ったが、夕実は、涙をどこかへ落としてしまったように思えてならなかった。  そんなことを考えてつい、大きなため息をついてしまった。そのとき……。  ちりん、ちりん。  どこからか鈴の音が聴こえてきた。音に誘われて、視線をうつすと赤い番傘を持った着物の男性が、紫陽花の横に立っている。 《どうした、何が悲しい》  突然、現れた男性に声をかけられ夕実は戸惑う。思わず彼から距離をとると、彼の瞳がゆらり、と揺れた。ラピスラズリに似たその瞳は、自分のよく知っているものと重なる。 「泣けないの……」  似ているからだろうか、気がつけばまったく知らないその男性に胸の内を話してしまった。 「練習試合で、負けたの。とっても悔しくて仕方ない筈なのに、涙が出ないのよ」 《泣くな》 「泣けないわよ、泣きたくても」 《……すまん》  頭上に影ができたことに驚き、夕実は視線を上へと向けた。影の正体、それは男性が、番傘を夕実に差し出していたのだ。 《泣けないのは、私が涙を奪ったからだ。けれど、夕実の涙がなければ私は消えていただろうし、雨を降らすこともできなかっただろう》 「え?」  男性の言っていることが、よく分からず首を傾げる夕実に、男性はもう一度「すまない」と呟いた。
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