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こちらは地獄の底の血の池で、ほかの罪人と一諸に、浮いたり沈んだりしていた寒田たえでございます。ぼんやり光る針の山では、愛人の一人であった鍼灸師直伝の「美容針」を、さっそく試して全身のむくみをとり、血の池には、地獄の岸辺に立つ筋骨たくましい赤鬼の姿をうっとり眺めながら、昔処女の血を浴びて若さを保ったという「血の伯爵夫人」にならい、エステティックスパのつもりでつかっていたのでございました。  ところがある時の事でございます。なにげなく寒田たえが頭をあげて、血の池の空を眺めますと、そのひっそりとしたくらがりの中を、遠い遠い天上から、細くコシのない髪の毛が、まるで人目にかかるのを恐れるように、一すじ細くよじれながら、するすると自分の上へ垂れて参るのではございませんか。寒田たえはこれを見ると、思わず手を打って喜びました。この髪にすがりついて、どこまでものぼって行けば、きっと地獄からぬけ出せるのに相違ございません。いや、うまく行くと、極楽へはいる事さえもできましょう。あの赤鬼と追いかけっこしながらじゃれ合うことも、針の山で全身エステすることも、血の池スパにつかることもなくなるのは少々残念でありましたが、なんの、極楽にはあれ以上のイケメンもエステもスパも溢れているに相違ないのでございます。 こう思いましたからは、早速その髪の毛を両手でしっかりとつかみながら、一生懸命に上へ上へとたぐりのぼり始めました。元より逃避行も脱獄も経験済みの大悪女の事でございますから、こういう事には昔から、慣れ切っているのでございます。  しかし地獄と極楽との間は、何万里となくございますから、いくらあせってみたところで、容易に上へは出られません。ややしばらくのぼるうちに、とうとう寒田たえもくたびれて、もう一たぐりも上の方へはのぼれなくなってしまいました。そこで仕方がございませんから、まず一休み休むつもりで、髪の毛の中途にぶら下りながら、遥かに目の下を見下しました。
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