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その日も、僕らは夜遅くまで近代小説の始まりについて議論していたところだった。
「やっぱり、和歌をちゃんと理解できないとだめね」
いつものように、言文一致の潮流を生み出した二葉亭四迷は云々とか、鏡花の文章は明治二十九年を境にかんぬんとか盛り上がっていると、唐突に玉木先輩が言った。
近代小説のはじまりは特に、文語から抜け出す過渡期にあるから、古文、それも和歌のような複雑な表現技法を確実に理解できるようにならないと、作品の真の理解はできないとのことだった。
確かにその通りだな、と思った僕は、安直に百人一首なんかを引いてみた。玉木先輩も同じことを考えていたようで、平兼盛が詠んだ歌を早速口にする。
「忍ぶれど 色に出でにけり わが恋は ものや思ふと 人の問ふまで」
かつては「恋」を「孤悲」と書いた。誰かを思う気持ちというのは常に孤独でなくてはならず、人に気付かれてはいけない。それが昔の感性だった。そんな文脈の中で、「誰か好きな人でもいるんですか?」と人に尋ねられるくらいに、心に秘めた思いが顔に表れてしまった。そういう状況をこの歌は詠んでいる。
「昔の人ってさ、恋は独りでするもので、誰にも言わずに相手を思うことが美徳だったんだよね」
本に目を落としたまま、玉木先輩は無邪気に言う。
「現代人には失われてしまった感覚だけど、それって素敵なことだわ」
彼女は不意に顔をあげて、僕の目を見てえへへと笑った。
千年前に平兼盛に尋ねた人間が今僕の目の前にいたなら、「ものや思ふ」と笑いつつ、僕も問われたかもしれない。
僕は今、恋をしている。
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