【侵攻】

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「今さらアドルフになろうとするな。形だけ作ろうとするなよ」  きついメンソールのタバコに火をつけて、星崎が顔を顰める。  タバコの煙を吐き出すと、鏡越しに大杉を睨み付け、言葉を繋いだ。 「あんたの中に、アドルフはもういるだろ」 「……俺の中に」  鏡の中で星崎と目が合うと、大杉はいかにも自信がなさそうに俯き、口をつぐんでしまった。  その様子に、星崎は再びタバコの煙と共にため息を吐き出し、声のトーンを変えた。 「どうしても自信が持てないなら、もう一度解放稽古する?」 「したいです!」 「わかった。じゃあ今からここでやるよ」 「え、ここでですか?」 「舞台上はもう使えない。稽古場は押さえてない。ここでやれることをやるしかないでしょ。嫌ならやめる」 「待ってください! やります! お願いします!!」  扉に手を伸ばしかけていた星崎を引き留め大杉が懇願し、薄暗い楽屋の中で、二人だけの解放稽古が始まった。 「鏡に向かって、アドルフの台詞を言いな。さん、はい――」    鏡に向かって?  その指示の意図が見えずに、大杉は一瞬だけ困惑するが、すぐに体は反応した。  この一ヶ月の中で、何十回何百回と吐き続けてきた台詞は、大杉の口から何を考えることもなくスラスラと飛び出していた。 「スピードアップするよ。鏡の自分から目を逸らさない。相手の目を見る!」  いつもの星崎の怒声よりも幾分湿っぽさを含んだ、それでいて高くもなく低くもなく、ややハスキーな『音』が大杉の耳を通って、脳内へと入り込んでいく。  それは意味を持った声としてではなく、感覚を促すただの『音』となり替わっていた。 「今度はゆっくりスローにして。一語一語を置いていくように。アドルフが最期に向かって階段を登っていくのと一緒。今、『アドルフ』は五十トンの重しをつけて歩いてるよ。もっともっと! 重くて重くて言葉が出ない!」  不意に、大杉は肩のあたりに重みを感じた。  星崎が手を置いていることを瞳は捉えていたが、脳には届いていなかった。彼の口調が段々と重さを増していくだけだ。  かつて、稽古場で汗だくになりながら何時間も走り歩き、台詞を放ち続けたあの時と似たような、どこか異様な空気が楽屋の中に立ち込めていた。 「繰り返して。自分の台詞を食う。もっと怒っていいんだよ! 泣くな泣くな! 楽をするなって、いつも言ってるだろ!」
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