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喉の奥にツンと痛みが走り、目頭が熱くなっていく。
涙が溢れぬように大杉は堪えていた。
「今から死ぬって人間が、簡単に泣くな! それはあんただ。大杉の都合は見せるな! 今映ってるのは、大杉じゃない。『アドルフ』だろうが!」
鏡の中に映るものと目が合った。
『大杉』ではなく『アドルフ』。
人に裏切られて、人を裏切り続けて、最後には自決する。
悲劇の王『アドルフ』の憔悴しきった顔が、鏡に映っていた。
「『疲れた……もう嫌だ……。何故、俺だけがこんな目に合う? 裏切ったのは俺か? いいや、お前たちだ!』」
人を信じることが出来ない男の哀しい目が、そこにあった。
ああ、これだ――。
そこに映る男の姿に没入しながら、大杉の脳の奥深くのどこかでは甘く痺れるような満ち足りた幸福感を感じていた。
まるで、ようやく本当の自分を探し当てたかのような。
あるいは、抜け落ちていた記憶の欠片を拾い集めたかのような。
不確かだった自己像が、たちまち確立されてゆく。
鏡に映る顔を『大杉』でも『見知らぬ男』でもなく、『アドルフ』として認識した瞬間、彼の脳は速やかに情報を上書きした。
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