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「余計な事は考えるな!」
長方形の稽古場の中に、怒号が飛んだ。
演出家であり脚本家であり、かつては自身も演者であった星崎あかねのその声は、高くもなく低くもないが、ややハスキーでどこか耳障りがいい。
フローリングの床に張られた養生テープのガイドラインの中を、グルグルと、汗だくになりながら息を切らしながら走り続ける男、大杉達也の耳にも彼女の声はしっかりと届いていた。
しかしながら、大杉の脳は彼女の言葉の意図を理解するのに通常時よりもかなりの時間を要し、星崎の指示とは真逆の働きを取ってしまう。
考えるなとはどういうことか。
思考を止めたら、このミッションをクリアすることなど出来ないのではないか。
そもそも、指示された動きをするのに――たとえそれが、単調なトレーニングであったとしても――思考を捨てるなどと、役者としてあるまじき行為ではないか。
それよりも、いつまで走ればいい?
この稽古は何が目的だ?
あと何週で終わるんだ。
ああ、ええと次の台詞は――。
頭の中には、止めどなく『大杉』の思考が溢れていた。
さらに、稽古場の壁二面分を埋めつくす鏡に映る自分の姿を時折チェックする。
当然、それらは雑多な情報として脳内を行き交った。
それでも大杉は、ひねり出すようにして、走りながら台詞を吐き続けた。
「『疲れた……もう嫌だ……。何故、俺だけがこんな目に合う? 裏切ったのは俺か? いいや、お前たちだ!』」
「足を止めるな! 台詞はただ口から吐き出すだけでいい! 余計な感情なんか捨てちまえ!!」
大杉には、いや、稽古場にいる役者たちの誰にも、星崎の言葉の意味を理解できる者などいなかったであろう。
同じく、異を唱える者も皆無である。
「はい、ストップ。五分休憩しな。五分経ったら今度は、十週で今の台詞を均等に言い切るよ」
「……はいっ」
大杉が、乾いた声で短く答える。
肺を通過する空気に痛みを感じるほど疲労し尽していたが、今ここで、他の役者たちが揃っている中で弱音を口にするわけになどいかなかった。
初めての大舞台。初めての主演。
三十歳を目前に控える大杉にとって、星崎が手掛ける古典劇『アドルフ』は大きすぎるチャンスだった。
この舞台の成功を逃したら先などない事を誰よりも知っていた。
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