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その場に立っていることが恐ろしくなるほどの重圧と、他者の視線に晒される不思議な高揚とで、大杉の脳内は興奮物質と沈静物質とが同時に放出されているような状態が続いていた。
「五分経った。いくよ」
「はいっ!」
星崎の声が響き、大杉はただジッと見守る役者たちを横目に再び走り始める。
一定のリズムで。早くもなく遅くもない。ちょうどランニングほどのスピード。
「ほら、台詞!」
「『初めて俺を地獄に突き落としたのは、十歳のルイーゼだっただろうか……――』」
「走るスピードに合わせるな! 身体と声をずらせって言ってんだよ! 楽をするな楽を! そんなんで二ページ分の台詞を言い終わると思ってんのか!?」
大杉が台詞を吐き出す最中も星崎の怒号は止まらない。
「すいません!」
「台詞を止めんなって言ってんだろうが! てめぇの都合を、舞台上で見せんな!!」
「っ……『あの時の俺には、まだ人を信じられる心が残っていた。しかしそれは――』」
大杉が台詞を吐く。走り続ける。
星崎が声を張り上げる。大杉のリズムを崩すように、指摘する。
それでも大杉は止まらない。止まれない。
星崎は止まらない。止めさせない。
台本二ページ分にもなる『アドルフ』の独白を繰り返し繰り返し、大杉が言葉にして落としていく。
大杉の疲弊した脳は徐々に余分な活動を停止していった。
『脳に蓄積された』台詞を吐く。走る。その二点に集約される。
言葉は、意味を持たない単なる『記号』として空気中を漂うようになっていた。
大杉が走り始めてすでに三十分。
この稽古が始まってから、優に半日が経過していた。
見守る他の役者たちは、半ば石造と化している。じっと息を顰め動かない、ただの『目』。
異様な空気が稽古場に充満していた。
「もう一度! 次はゆっくり歩いて、一周で言い切る!」
「ハッ……ハッ……!」
「ずい分キツそうだけど、休む?」
返事することなく、大杉は足を動かし始めた。
どこを見ているでもない視線が、何度も他の役者たちの前を通り過ぎていく。
この頃になると、大杉の表面上の意識はほとんど空っぽの状態になっていた。
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