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「『初めて俺を地獄に突き落としたのは、十歳のルイーゼだっただろうか。彼女は従姉で、とても愛らしい人だったと記憶している。俺は確かに、彼女のことが大好きだった。だが、彼女はそんな俺に、屈辱を覚えるに充分な仕打ちをしたのだ』」
大杉の視線が宙の一点を見つめ出す。
まるで昏い水の中を歩いているような緩慢な動作を取りながら、大杉の神経は奇妙に研ぎ澄まされていた。
「そう、そうだよ。そのまま続けて。目の前に、アドルフを裏切った人間たちがいるよ」
彼方から、囁くような声が聞こえてきた。
大杉の耳に届いたソレは、高くもなく低くもない、耳障りの良いややハスキーなもの。
大杉の脳は、耳が拾った声を『声』とは理解せずに、『音』として認識した。
「ほら見てごらん。アドルフを憎む目が、ここに沢山ある」
『音』に誘われるように、壁際――鏡面――に視線を這わせる。
聞いた内容を理解して行動に移したのではなく、大きな音に驚いて振り返るといった類の、反射行動にしか過ぎなかった。
焦点の曖昧な瞳に映ったのは、無数の目だった。
大杉に向けられる目、目、目――。
その中のひとつに、大杉の脳が微かに反応した。
見たことのない、やけに顔色の悪い男の顔がジッとこちらを見ている。
水を被ったかのように汗をかいているその顔は、何の感情もないように見えた。
空っぽの無表情が、口だけをパクパクと動かしている。
とても奇妙な男だった。
こいつは誰だ――?
脳の中に、『台詞』と『歩く』以外の情報が植えつけられ、疑問として沸き上がる。
ひきつけられるように、大杉の足が歩みを止めた。
手を伸ばしたのは、奇妙な男の実態を確かめようと脳が判断を下したためだった。
疑問を解消しようと足掻き始める脳とは別のところで、警鐘が鳴り響く。
大杉の精神が、男の正体を知ることを拒否しているようだった。
口から吐き出された台詞が、グズグズに形を崩すように床に落ちて転がっていく。
「『つか……れた……もう……い……やだ……』」
それに合わせたように、顔色の悪い男が口を動かした。
大杉と、顔色の悪い男の動きが寸分違わず重なる。ただし、反転した形で、だ。
「……え……?」
ハタと、大杉が瞬きをした。それから大きく瞳を見開いて、唖然とする。
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