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「はぁ、やっぱり星崎さんの演出ってすごいですね」
「ああ、そうだな」
稽古場の隅で台本を握りしめたまま、瞳を爛々と輝かせるヒロイン・マリア役の泉友香の言葉に、大杉は力強い響きでもって答えていた。
「さすが、鬼才と言われるだけあるよ」
大杉自身、星崎あかねの演出を受けるのは演劇人生で初めての事ではあったが、業界に身を置いている者で彼女の名前を知らない者は少ない。
感覚的で情緒的。
女性ならではの恐ろしく細やかな感情表現の魅せ方と、役者の感性を引き出し極限まで高めるテクニックには定評があった。
すでに大杉も経験している通り、星崎の稽古は独特で過酷ではあるものの、役者にとってこれほど刺激的なものは無いと言えよう。
「大杉さんも、解放稽古を続けるようになってから、芝居の質がガラッと変わりましたもんね!」
「うん、俺も正直そう思うよ。あんな稽古したことなかったからな。なんか、ビックリした」
解放稽古とは即ち、自己を解放させるための基礎稽古のことである。
あの日――鏡に映る自分を見失った、あの感覚。
奇妙で不可思議で嫌悪感を伴うような『失認』という感覚を自己解放というならば、そうなのかもしれないと大杉は考えている。
自分の外郭を粉々に壊して、新しく組み立てるための一歩。
アドルフという役の上辺を演じるのではなく、己の細胞のひとつひとつがアドルフと置き換わっていくような感覚。
そのきっかけが、あの『失認』だったのだ。
初めての体験以来、大杉は毎日数十分から一時間は、必ず解放稽古をトレーニングに取り入れている。
残念ながら、あの時のような強烈な感覚に陥ることはなかったが、確かな手ごたえは感じていた。
『大杉』という平凡な男の殻が壊れ崩れ、まずは何者でもなくなるような手ごたえだ。
「あと半月かぁ……稽古一ヶ月なんて、あっという間ですよね」
「ん? ああ、そうだね」
「……私、この舞台すごく好きなんですよ。役者になろうって決めたキッカケの舞台なんで」
熱っぽいひたむきな視線が、大杉に向けられる。
「星崎さんの復帰第一弾ですしね! 絶対にいい舞台にしましょうね」
星崎あかねは演出家としての活動を自粛していた期間がある。
大杉も泉も詳しい事は知らないが、数年前に演出を手掛けていた舞台の中で、事故があったのだという。
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