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丁度その日は大粒の雨が降っていて、傘のビニールにあたる忙しない音のせいで彼の声が聞き取りにくかった。そんな中でも聞きたくない、知りたくない事は割とはっきりと聞こえるもので。
『俺、病気なんだよ』
強調されてもいない、寧ろ他の言葉達よりも弱々しく、でも気丈に発せられた言葉は、ビニール傘を弾く雨の音さえも一瞬にしてどこかへ撥ね飛ばした。所謂、“時が止まった”、そんな体験をしたのだった。私は思わず力が抜けて止まりそうになった足を半ば引きずるようにして無理矢理前に進めたのを鮮明に覚えている。あの時の音も、匂いも、気持ちも、力が抜けたような感覚も、彼の繊細な表情も、全部全部、覚えている。
『だから────』
彼は若くして癌を患っていた。
『止めておきな』
彼は辛そうに、顔を歪めながら笑った。
その時の胸を打つような、抉るような衝撃は半端なものではなかった。頭が真っ白になるほど、彼のその情緒的な表情に、心をやられた。
彼は、相手を傷つけると分かっているから、無条件には上手く人を愛せない。
だから自分がいなくなった時に相手を泣かせるのが嫌だと、幾度となく私に繰り返した。
そこには暗に、『離れられるうちに、離れておけ』そんな意味合いが込められていた。
彼は理性的な面が強くて、いつも利己的で冷静で、且つ正しかった。
反対に私は感情的で、情緒的で、気の赴くままの行動で、いつも彼を困らせた。
そんな真逆の二人だからこそ、打ち解けたのかもしれないし、お互いを苦しめあったのかもしれない。
悩んで、苦しんで、決めかねて…………。
でも彼といることを選んだことに、今は寸分の迷いもない。
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