16人が本棚に入れています
本棚に追加
「いいえ、自分のためです。独りで生きるには勇気が必要です。だからそれをもらいに、巨樹に逢いに行くのです」
「そうなんですか……」
この人も旅人なんだ。そう思うと胸が込み上げる。
「こいつがいるのに、なぜ自分は幸福でないのか。そんな自問を繰り返したのです、でも間違いだった」
「何が間違っていたのですか?」
「幸福はね、風のようなものなのですよ。巨樹を揺らす強風もあれば、頬を撫でる春風もある。いつも側にあるが、その存在に気づかないものなのです」
八木さんの話を聞いて思い出した。
──あれは私が家を出て都会に行く日だった。
いつも無愛想な父が見送ると言うので断ると、その背中に投げられた言葉があった。
「亡くなった母さんは、お前の幸せを望んでいた」
「……行ってくるね」
言葉足らずな別れの言葉。
いや、心のなかでは叫んでいた。誰よりも幸せになって見返してやると──。
「巨樹がある駅につきました」
八木さんが席を立つと、ケサランパサランも一緒に動く。だから私も途中下車した。
「こいつはね、妻が飼っていたものなのですよ。こいつを木村さんに託します」
「そんな、亡くなった奥様の大事なものを」
「自分にはもう必要ありませんから。大事なものは、もうここにあります」胸を叩いた。「後ろを振り返ることはね、決して悪いことではありませんよ」
「……ありがとうございます」
頭を下げて絵の具入れの箱を受け取った。
「巨樹の絵が描けたら、いつかきっと見せますね」
八木さんが軽快な足取りで去って行った。
別れの言葉はいらない。また逢えると信じているから。
最初のコメントを投稿しよう!