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1、 陳腐な愛はうたわない
どうして愛や恋の歌、ばっかりなんだろうね?
カオルは思う。
「決して離さない」
「I need you」
みんな遠い感覚だ。
「カオル」この、どっちつかずの名前。自分では気に入っている。
男でも女でもないほうが、いまは心地いい。
大切なことは、きっとそんなところにない。
目にかかるハンパな長さの前髪を払いのける。
こうして一人で机に向かいペンを走らせる時、一番ウソがない。
いつもの不安は消え失せ、静かな高揚感を覚える。
何も不可能はない、とまで思えてくる。
この締め切りが地元の同人誌で6月17日、次の締め切りが新潟の会誌で6月25日。
試験まで間もなくて、ちょっと苦しい。
学校の勉強だってそう熱心に取り組んでいるわけじゃないけど、まったくやらないわけにもいかない。このトシでヒマだ退屈だと言っている人が信じられない。
じっとしてたって勝手にやりたいことは湧いてくるし、時間は限られている。お金も有限だけど、身なりだってそこそこ整えたい。
好きな人はいた。でも、もう忘れたよ。完全な片思いだった。1年の夏休み明け、彼とクラスメートのユミカが、一緒に登校するのを見てしまった。
小学校のときから、カオルを好きになってくれた人なんか、一人もいなかった。
浮いた話は、すべて自分を遠巻きによけていく。
彼氏が欲しくないわけじゃないのだ。
たまに夢で、顔のわからない誰かが隣りに立っている。ただ一緒に電車に乗って通学する。それだけのことに、体の細胞という細胞がざわめき、あたたかい光に包まれる。
カオルがいままでの人生で、一度も経験したことのない幸福感。
夢の中では、リアルに感じられるのが不思議だ。
携帯が鳴る。
「アダチですけど、進んでますか?」
彼女は短大2年生。同じ駅の、線路をはさんで反対側に住んでいる。
「16日、4時にM駅銅像の前でいいかな?」
原稿の催促だ。地元の同人誌は本部が最寄りのM駅近くにある。幹部は皆この界隈に住んでいて、連絡はメールか電話で済ませ、原稿は手渡し。新潟の会ではメールや郵送を介している。
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