愛しい奏で

2/10
前へ
/818ページ
次へ
 ――今、何時なのだろう。いや……そんなこと、どうでもいい。  暗い部屋のベッドに横たわり、西本祐樹は天井の一点を見つめる。  東京に帰って来てから、彼はずっと闇の中に居た。  外で何が起きていようがいまいが、昼だろうが夜だろうが、関係ない。  厚いカーテンを閉め切れば外の明かりが遮断される。テレビ、パソコン、携帯なども見なければ、明かりどころか何の情報も入ってこない。  時々、綾波やメンバーが声を掛けてきたが、彼らと会話もしなかった。  来月の武道館公演を前にして、手を怪我したり歌えなくなったりーーこんな状態が不味いのはわかっている。だけど、どうしても歌うことができない。  クレッシェンドの楽曲のすべてをーー歌おう、奏でよう、としてもーー胸の奥に異物が詰まってしまったかの様にーー声を出そうとすると苦しくて吐き気さえ覚える。  ピアノに向かえば、いつでもキラキラと輝く音の世界の中、自由自在に跳び回る事が出来た。なのに、あの日以来、ピアノの前に立つ事さえ苦痛になってしまった。そう、彼女と……ほなみと別れた日から……  自分の音楽を表現し、世の中に発信する事、ステージに立って演奏することを夢見てきた。路上ライブもしたし、どんな場所へも出向いて演奏した。時には騙されたりして悔しい思いもした。  デビューしてから、自分の作った音楽に酔いしれ、ライブ中に涙ぐむ客を見て 「ああ、自分はやっと、夢への第一歩を踏み出したんだ」  と思えた。  音楽と引き換えに命を懸けてもいい、という信念を持ってここまできた。  それなのに、今の自分の不甲斐なさは何なんだ。  ほなみと会う以前も、いくつかの恋をしてきたつもりでいた。  今まで会った女の子達は皆、可愛くて安らぎをくれたし 「西くんの為なら何でもできる」と、言ってくれた。  恋をする度、彼女達に対して、 「出来る事はなんでもしてやりたい」と、心から思っていた。  彼女らは結局、スケジュールの都合などで会えない日々に不満を募らせ、他の男を選ぶ。西本を捨てて。
/818ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1042人が本棚に入れています
本棚に追加