第四章『蛟を祀る一族』

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     1 『眠り姫』  亜緒は踏みつけた足元から伝わってくる芝生の感触が妙に現実的であることに違和感を覚えた。 「久しぶりですね。殺子(さちこ)さん」 「お久しぶりです。亜緒様」  紅桃林(ことばやし) 殺子(さちこ)の夢の中はいつも空が青く透き通っているので、亜緒はどうにも落ち着かない。  紅いダリアのような花が咲く広い庭のような場所で、殺子はブランコに揺られながら笑顔だった。  長くクセの無い黒髪が白すぎる肌に触れて艶やかに映える。  凛として整った顔立ちは口元に少しの憂いを結んでいて儚げだ。  全体的に痩せすぎの感はあるが、世間では彼女を美少女と呼ぶのだろう。  しかし、殺子が俗世を知ることは無い。  彼女は身体が弱く、日々の殆どをベッドの中で過ごすからだ。  そして何よりも、深紅に輝く瞳の血筋がそれを許さない。 「今日はどういった御用件で僕を呼んだのですか?」  亜緒は礼を欠くことがないよう気をつけたつもりだったが、声音にはハッキリと不機嫌が乗ってしまった。 「用件が無ければお呼び立てしてはいけませんか?」 「こう見えても僕は忙しい身なのです。現に今、とても逼迫(ひっぱく)した状況にあるのです」  此処は夢の中である。もっと云えば、殺子の見る夢だ。  亜緒は眠りの中で夢を見ることはない。  予知夢が降りてくるときか、他人の夢へ邪魔するとき以外は夢と云う名の幻影の中に彼が居ることはない。  紅桃林 殺子はこの世で唯一、亜緒を自身の見る夢の中へ招待出来る少女だった。  それは彼女の霊力が亜緒よりも強いことを意味する。  この夢ならではの情景も、少女が亜緒を迎えるためにしつらえた世界なのだろう。 「兄が父を殺してしまいました」 「あぁ、とうとう殺ってしまいましたか」  亜緒の声に動揺の揺れは微塵も無い。  まるで予め知っていたかのような態度に、殺子は不満そうにブランコを降りた。  白いワンピースの裾が一瞬だけ花開いては、閉じる。 「それで、お願いがあるのです」  少女が亜緒との距離を縮めてくる。その分だけ亜緒は距離を取った。 「兄様を殺して欲しいのです」
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