第二章『濡れ女』

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     1 『三途の川』  亜緒は普段夢を見ない。  見ることがあるとすれば他人の夢の中へ招待されたときか、予知夢の類が降りてくるときだけだ。  しかし、今回はそのどちらでもなかった。  紅い月が明るく照らす川原を亜緒は当ても無く歩いている。  月なんて亜緒の住む世界には存在しないものだから、亜緒の認識は空に輝く大きな提灯のようなものといった曖昧さだ。  ガス燈も無いのにまるで真昼のように明るい川原は、亜緒からすれば充分に不思議で刺激的な光景である。  しかし、寂しい場所だ。  風も無く匂いも無い。  亜緒が存在する音だけが虚しく響くだけの無常の世界。  川辺には枯れた水草らしきものが数える程度に水面から突き出ている。  隣を流れる川は向こう岸が見えないくらいに幅広く、遠い。  ――三途の川。  誰に教わるでもなく、此処が此岸(しがん)と彼岸(ひがん)の境目であることを亜緒は承知していた。  生者の世界の果てに来るのは、今回で四度目だ。  暫く歩くと水辺に一艘の小さな木舟が揺れているのを見つけた。櫂(かい)は無い。  舟には楚々とした女性が腰を下ろしている。  亜緒は自分がどうしてこんな所まで来てしまったのか、漸く合点がいった。  亜緒が近づいて行くと女性は徐に立ち上がって小さく頭を垂れる。 「僕を呼んだのは貴女ですか?」 「はい」女性は肯定してから顔を上げた。  長い髪を三つ編みに結って眼鏡を掛けている。  ワイシャツとスカートのシンプルな服装が清楚な、年の頃二十歳前後の女性。 「藤村 雪絵と申します」  亜緒は死人相手に名乗るつもりはない。  一方的に呼びつけられて機嫌も悪かった。 「こんな処で何をしているんです? 早く向こう岸へ渡りなさい」 「ある人を待っております。いくら待ってもやって来ないのです」  雪絵という女性は亜緒に写真を一枚差し出す。  好青年と雪絵が仲睦まじく、時が止まったモノクロームの世界に収まっていた。 「藤村 草之介。私の夫です」  聞かれてもいないのに写真の相手を紹介する。 「生きているとしたら、そろそろ寿命が尽きる頃合なのです」 「なるほど。彼を待っているのですね」 「はい。貴方には彼の様子を見てきて欲しくて、お呼び立てしてしまいました」  失礼を詫びるように、女は今度は深く頭を下げた。
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