第二章『濡れ女』

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「しかし、この写真は随分昔の旦那さんの姿らしい。参考にはなりませんね」  亜緒の声音は素っ気無い。  此岸では時の流れに従い、その容姿も変わっているだろう。  女が船から亜緒を呼ぶ。 「もっと、こちらへ寄ってくださいな」  どうやら彼女は舟から降りることが出来ないようだ。  舟へと近づいた亜緒に、雪絵が一方的な接吻をする。 「これが草之介の響きです」  雪絵の頬が控えめに染まった。  『響き』とは生きている人間が常に発している生態信号のようなもので、指紋や声紋のように一人一人の成り方が異なる。  雪絵は亜緒に草之介の響きを口移しで伝えたのだった。  突然、目が覚める。  のそのそと起き上がり、寝間着から普段のシャレた洋装に着替える途中で雪絵という女から渡された写真を手に持っていることに気づく。  写真を懐に仕舞ってから、亜緒は階段を下りて座敷の襖を開けた。  座敷には現子と亜緒が立ち回った痕跡はもう無い。  おかげで宗一郎から受け取った三百万は、家の修繕費と借金返済ですべて消えてしまった。 「亜緒、やっと起きた」  鵺が「もうお昼になるよ」と不満そうに時刻を指し示す。  一人での店番は退屈で鵺は何度も亜緒を起こそうとしたが、まるで死んだように眠っていて反応が無かったという。 「春眠暁を覚えずってやつで」  おどけて見せるが、彼岸へ意識が飛んだ時の亜緒は何をやっても目覚めることはない。 「ところで蘭丸は?」 「仕事に行った」  そういえば、小さな仕事が入っていたのを亜緒は思い出す。  一人で充分だからと言う蘭丸に任せてしまったのだ。 「ただいま帰った」  噂をすれば何とやらで、蘭丸が帰ってきた。  何故か大量のパンの耳が入った袋を手に持っている。 「お帰り。仕事はどうだった?」 「他愛無い妖(あやかし)を斬って捨てるだけだったからな」 「そりゃ、君の前では大抵の妖は他愛無いでしょ」  業界では「妖殺し」の異名を持つ蘭丸である。  依頼は一瞬で片がついたのだろう。  美貌の剣客は脇に差した『電光石火』を優美な動作で着物の帯から引き抜くと、落ち着いた日常に腰を下ろした。 「いい匂いがする」  鵺がパンの耳に反応して小さな鼻をスンスンさせる。 「パン屋の前を通りかかったら渡されたんだ」  家が火の車なのが近所に知れ渡っていると、蘭丸は恥ずかしそうに顔に手をやった。
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