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妻木十兵衛
男の肩がぴくりと動き、ゆっくりと顔が上がった。挨拶を述べようと口を開いた瞬間、帰蝶の声が降ってきた。
「そなたが妻木十兵衛ですか。美濃のゆかりの者に会えて嬉しゅうおもいます」
おっとりと声をかけながら帰蝶は男の様子を観察した。
中高で面長、穏やかな目をしている。ひどく静かな男だ。この水のような表情を動かしてみたい。
「酒などいかがか。なあ美濃にはいつ頃までいたのか。父に仕えていたのか。それとも兄か。長良川の崩れのときはどうされていた。なにゆえ当家を頼ってくれなかったか。将軍家へお仕えしたいと聞いたが、当家では不足なのか。妻木であればわたくしとも縁続きなのに」
帰蝶は畳み掛けた。十兵衛は珍しい生き物でもみるような顔をして帰蝶をみている。室町の御所にも自分の周囲にもこのようにひたと相手をみつめてはきとものをいう女はいない。上臈になればなるほど、伏し目がちであるかなきかの声で話すものだ。
「おい。うちのは珍獣ではないぞ。奥は美濃と聞くと少々己を忘れるのだ」
信長が苦笑しながら帰蝶と十兵衛の間に割って入った。
「いや、これは失礼をいたしました」
と今度は藤孝に向けて十兵衛は言葉を継いだ。
「織田殿は……そう、御所風ではないのだ。今様、といえばよいのか。そのまま答えよ。答えはなるべく短こうな」
と物堅い浪人のために藤孝は言ってやった。
「浪人と聞いたが、ご妻女などはおりませぬのか」
なぜそのようなことを話さなければならぬ、とちらりと不快が十兵衛の瞳を掠めた。帰蝶はそれを見逃すはずもない。
「答えたくないか」
「いえ、さようなことはございませぬ。おりますが、今は近江のほうに」
「近江」
「それはまた……奥方は近江の方なのか」
「いえ。同族にて」
「おお妻木か。わたくしに仕えてはくれないかしら。よき侍女は幾たりでもほしい。わたくしと繋がりのあるものならなおうれしい」
「いえ。それは。子らの世話もありますし」
「まあ。お子が。男か、女か」
「は。三人めの娘が生まれたばかりでございます。娘ばかりで」
と初めて穏やかな笑顔をみせた。
「さぞや会いたかろうなあ。ご妻女は住み慣れた美濃が恋しいであろう。いっそ一家で当家へ」
「奥、くどいぞ。済まぬな。奥は美濃のものが一から十まで好きなのだ。ときにそなたは何が得意か。武芸などはいかがか。将軍家にお仕えしたいというと剣か、弓か」
信長が割って入った。なるほど織田家は常に人材難である。信長の気持ちを推し量れるものが少なすぎるのだ。だから帰蝶がよき人材を(そして自分のために美濃のものを)と焦る気持ちもわかるが、勘の鋭い藤孝に己の足許をみられたくないという気持ちが信長にはある。
「いえ。それがしは不調法者にて何事も極めるにいたっておりませずお恥ずかしい限りにございます」
と十兵衛は慇懃に頭を下げた。
「いやいや。十兵衛は軍略なども学んでいるし、何より鉄砲の上手でな」
「おお。それはよい。どうか、今から少し試し打ちなどせぬか。堺から届いたばかりの鉄砲がある」
今度は信長の目の色が変わった。隣で話の腰を折られた帰蝶が少々機嫌のわるそうな目つきで夫をみつめている。
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