桶狭間

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「お詫びというてはなんですが」 そう言って広正は口ごもった。 「なんだ、遠慮など無用だ。申せ」 信長、演技派である。いらいらしているのだが、こういう時には実に爽やかな好青年になることもできる。今、恐怖を感じさせてはならない。 「今川屋形は桶狭間山にて兵糧を使っておりまする。我が一族が酒肴など届けましたので、しばらくのご動座はないと心得ます」 「おお、そうか。して後続の奴輩(やつばら)はいかがか」 「それも、桶狭間山にいまだ至らぬところで大休止をとっております」 「ようやった。殊勲ぞ」 と信長は大声で梁田広正を褒めあげ、さらにこの戦に合力してくれるだろうな、と尋ねた。 「無論でございます。30名ほど引き連れてまいっております」 「地理に詳しいものがいてくれれば百人力だ。頼むぞ。あれに生駒という者がおる。あやつの元に入ってくれ」 「はっ」 梁田が手勢を引き連れ生駒甚介のところへ行くのを見届けるや、 「皆、行くぞ」 信長は馬にまたがり真っ先に飛び出していった。手綱にすがりついて止めた老臣たち数名が振り飛ばされ転がる。それを無視して近習たちや馬廻り衆が騎馬で続く。皆、信長の命令により旗ざしものは巻いて腰にくくりつけ、同士打ちにならないように目印の黄色い布を鎧の肩に結びつけた。 桶狭間山というのは現在、比定されていないが小高い丘だったと考えられている。 その上で丸根・鷲津砦の戦勝報告を聞いた義元はひどく機嫌がよく、謡いを三番も歌った。 「お屋形様、織田の軍勢一千ほどが動きました」 注進が入った。 「どちらへ向かっている」 「美濃(北)のほうへ」 「ふむ」 しばらく考えた義元は、正確な判断をくだした。 「囮であろう。怠らず見ておれ。この丘に取り付いてくるようであればすぐに知らせよ」 「はっ」 物見が下がっていくと、義元は近習たちに機嫌よく言った。 「それにしても今日は暑いのう。もう昼も過ぎた。この時刻から尾張の小童も仕掛けては来まい」 「御意にございます。いまだ善照寺の方角に織田の旗ざしものが多数見えまする」 近習の一人が答えた。至極常識的な判断であった。この当時の戦は早朝、相手に気取られないように陣を張ったあと、午前八時(辰の刻)あたりから戦闘を開始し、日没前には戦闘が終了する。 「兵らを休ませてやれ。いや今日は暑い。尾張は駿河よりも暑いのかの」
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