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「さあ、皆、きれいに掃除をするのです」
信長や近習たちが飛び出していったあと、帰蝶はたすきをかけ、張り切って女たちに下知を下している。
城番として残された福富(ふくずみ)や猪子兵助、小者たちもみな箒やらちりとりやら、ぼろきれなどを持たされて隅々まで磨き立てさせられている。
「奥方様はいったいどうなさったのだ」
福富がぼやく。
「さて。城を磨き上げて今川に譲りわたさんとでも思うていらっしゃるのか。ワシにはとんと判断がつかぬわ」
猪子も小声でぼやく。ちなみにこのふたりは「必ず帰蝶を生き延びさせよ」と信長から厳命を受けている。
「おふたりともいかがなされた」
「おお、各務野様」
後ろにはこれも凛々しくたすきをかけた各務野が薙刀ならぬ箒を持って立っていた。
「奥方様は何をお考えなのかと。以前の合戦のときには逆茂木を植えたり、油を煮る用意をしたりされておりましたが。いまからでも、落とし穴のひとつやふたつは掘れましょうぞ」
小声で福富が各務野に抗議した。
「それが・・・」
「奥方様ほどの方でも、ご悩乱あそばしたか」
と猪子兵助も心配げに尋ねる。
「ではないのよ」
気心の知れたふたりを前に各務野の口調が美濃の昔に戻る。「お二人とも空城計(くうじょうけい)をご存知」
「お、おう」
道三の側近く仕え薫陶を受けたふたりである。もちろんそれが兵法三十六計の一つであることを知っている。
「それよ」
各務野はため息をつく。
「奥方様は諸葛亮ではあるまいに」
思わず吹き出して福富が言う。
「奥方様は、殿様は必ず戦に負けても生きて帰ってこられるから、それまで城を開ける(=開城する)わけにはいかぬ、とこれが大真面目で。狂ったわけではないのじゃが」
各務野はまたため息をつく。ことが大きくなればなるほど帰蝶の頭の回転は早く、明敏になるのだがときどき発想が飛躍しすぎて誰もついていけなくなる。出産のため堺へ自ら落ちたときもそうであった。
「各務野、福富、猪子、何を油を売っている」
後ろから帰蝶のよく通る声が響き、三人は1寸ほど飛び上がった。
「道三が娘の守る城じゃ。諸葛亮とはいくまいが、それなりに時間は稼げよう。各務野はわたくしと来い。見回る。おまえたちは篝を盛大にたけ。大手は大きく開けろ。あとで見に行くからな。懈怠(けたい)あるな」
いったいいつから聞かれていたのか。三人は首をすくめた。
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